雪蹊寺さんを越えて、三十四番種間寺向かいました。
 この種間寺さんも立派なお寺でした。そこのお宿のお神さんも立派なかたでした。お神さんの言うのには、「お大師さんは結構なものよ、お寺の山門が古くなって、修理費、五百万円寄進しようとしたら、居ながら、お金が集まった」皆が喜んで持ってきてくれた。このお神さんは、とても信仰心が厚い方なので、集めて廻らなくても、人が持って来てくれるんだそうです。
 その方は自分の事では一切、拝まない、
「そりゃ殺生よ、家内安全、延命息災、交通安全、死んでも命のあるように、ぎょうさん頼んで、十円、お賽銭して、そんな事、聞き取れる訳がありませんよね」「ああ‥‥本当にその通りやな、この人は清い人やな」と思いました。

 で、私もお四国遍路を廻さしていただいている、いきさつを話さしていただいたんです。始めは、張り切ってましたから、大宇宙の大調和ならん事を、これを祈っていたんです、それから私の恩師が一昨年、亡くなられたので、その師の菩提を弔う、これは、沖正弘導師と言う方で、ヨガと言うものを、世界に広められた方なんです。その人の菩提を弔う‥‥‥‥と言う事を念願していたのにも係わらず、結局、実際やってみると、お金に困って来ると、お金が欲しい、食物が欲しい、安全に泊まれたらと、身の安全ばかり‥‥‥‥そう言うばかりの中、そのお神さんのいうのには、そう言う拝み方は本来の拝み方では無いと言うんです。この高知の種間寺さんのお神さんに、ずいぶん教えていただき、有り難い事でした。

 翌朝、宿泊費をお支払いすると、一旦、受け取って、「はい、お接待」「何ですか」「私はね、月に一回、お接待する事にしているんです、しかも、歩いて行く人、清らかな人、あんた、今年、初めての人、これお接待」
 「宿泊、只よ」とは言わない、一旦、受け取って、それを、お布施して下さる、成程、
有り難いな、と思いました、そうすると、道を歩きながら、泣けて来るんです、私は守られている、守られて、こうして歩かしていただいているんだな、足が痛いの何や、しんどいのが何や、そうするとね、涙が出て来る、勇気が出て来る、勇気が出るから、足の痛みも、物の数でも無い、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、唱えながら、道を歩き続けました。

 旅の空でお遍路して、教えていただいたんです。最初の時、お杖で教えていただき、十番切幡寺さん、宿屋、歴代続いた遍路宿のお神さん、杖を玄関に置こうとしたら、「駄目よ、お杖は、ちゃんと拭いて、床の間に置きなさい、これ、お大師様の足よ」
 ああ、そうですか、だから、それ以後、私は、泊まる度に、お杖は、部屋の一番、大事な所に置く様にして来たんです。
 歩いた行程一日、十里、四十キロ、最高は五十三キロ位、一日に歩いた事があります。大体、十里が、昔の旅の人の相場なんですね、そうすると、翌日もまあまあ歩けます。あまり無理して、距離を稼いでしまうと、次の朝、痛くて歩けなくなります。大体十里、そうすると、不思議なことが起こって来ます、一里、四キロだから、道路標識を見ても、何処そこまで十キロと書いてあります、ところが、石の案内には何里と書いてある、この方が便利なんです。どう言うことかと、言いますと、一里一時間と見るんです。成程、昔の人はうまいこと考えるもんやと、だから、昔の人は一里半刻、二里一刻ですわ、二時間です。

 で、石のお地蔵さん、あれは伊達に立っていないです、ほんまに、道標べなんです。四辻で此に立っていたら、真っすぐ行きなさい、あそこにあったら、こっちに曲がりなさい、そっちにあったら、あっちに曲がりなさい、お地蔵さんに道を聞きなさいとは、地蔵さんの位置で道が分かります。
 道を迷ったら大変なんです、一時間ロスするとね、一時間迷うて行ったら、一時間で帰って来れない、えらくて、一時間以上かかります。それが、自然に気が付くんです、お地蔵さんに、自然に導かれて行くんやなあ、だから、古い旧街道、旧街道と歩いていきます。そうすると、お地蔵さんに導かれて居るんだなと自然に分かって来るんです。
 そう言う事が、だんだん開けて来ると、私は、大宇宙の大調和ならん事を、沖導師の菩提を弔う!嘘を言え、嘘を言え、となって来るんですよね、何んでや、涙をぼろぼろ流して、お前はそんな事、口先で言うているけど、本心は何や、お前の本心は何やと、そうや、おかしい、こうなって来る。

 私はね、生まれは、あの、大阪の九条、あの松島遊廓のあった所で生まれ、育ちました。私の母親は小学校五年の時、死んだんです、一年して、新しい母親が来たんです、ですから、私は、継母に育てられたんです。継母に育てられた為に、前のお母ちゃんを思いだすと、今のお母ちゃんが、悲しがる、だから、そう言う思いは捨てよう、前のお母ちゃんの知人とも付き合うまい、と決めて来たんです。
 今、考えると、私を育ててくれた、生みの親は、この讃岐の出なんです。十八の時、大阪に出てきて、言わば口減らしなんですね、そして、親父と結婚して、その親父も、死んで今年で八回忌、もう九年たちます。今の母親に「あんた、誰や」とボケられてみると、私は、生んでくれた母親に会いたい、お母ちゃんに会う為に、私は来て居るンや。そうや、お前はええ格好言う必要無い、そのお母ちゃん恋しくて来たんやろう、そうや、‥‥‥‥
 そうや、讃岐へ行ったらお母ちゃんに会えるか、会える、行こう、こうなったら、勇気が出ますわ。
 母を尋ねて何千里!本当の心、そんなら、どんな事が起ころうと、私はそこまで行く、骨舎利になっても、お母ちゃんに会いに行く。母親と言うものは、幾つになっても、子供の明かりやと思います。そこへ、逢いにいくんやったら、どんな事でもする。元気も出る、疲れも飛んでしまいます。

 そうして、歩いて行きますと、色々な事が分かって来ます。例えば、番があって、非常に有り難い、有り難い所は同じ様な反対のものがあります。
 良いものばかりと言うのは、世の中、ありません、例えば、焼山寺越えの時、感じた事は、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛と繰り返しながら歩いていると、突如、がつん、と凄い音。「あっ!頭蓋骨、今、どんと割った音やな」
 はっと、聞こえるんです。ここで、人殺しがあった、見えるともなく、見えるんです。老巡礼が雲助に殴り殺され、若い娘が攫われて行く。恨みと悲鳴、老巡礼の声なき叫び。
 般若心経一巻、たむけました。
 私は帰ってから、資料を調べて見ると、間違いなく、そこの場所で、焼山寺越えの、手前の所で、そう言う事実が残って居るんです。昔の街道では、雲助、物盗り、この様な事は、いくらでも有った事なんです。

 四国は昔から四県有るんです。四県有ると言う事は、関所、関所を越えていかなければならない、土佐の国は山内家が守ったり、長曽我部が守ったりして、こっちからあっちへ入るのには、関所を設けて、調べるでしょう、敵のスパイが混じるかも知れない、お遍路って何故、そんな者が通過出来たのか。
 出来たんです、何故か、それは、例えば、ここ、金屋町なら金屋町の庄屋さんの証文を貰って行きますね、そこへね、これは、こう言う者やと、私は○○○○というもんやと、証明するのと、別に二行だけ、厳しい文句が書かれているんです。「この者、その地に於いて、果てるとも、出生地に送り返す事、及ばず、その地に於いて、葬られたし。」
 そこで、この二行が有るからこそ、お遍路さんは行けたんですね。だから、言わば死ぬ覚悟で、死という事と、たいたいとなって、それをやり抜く、というのが、本来のお遍路の姿なんです、行き倒れ、覚悟です。
 同行二人、あらゆる不安、あらゆる恐れ、こう言うものとまったく一緒になって、南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛、と唱え続けながら、同行二人と言う事が初めて、生きて来るんです。そうすると、雨、風、雪、毎日晴れる日もあれば、色んな天候があります。雪の中も歩かなければならない、雨の中も歩かなければならない、唯、ひたすら、唯、ひたすら歩く。余計な事を考えず、唯、ひたすら歩く。
 けれど、初めの中は、なんぼでも、さっき、言った様な不安、これで行けるのだろうか、お金の事が心配や、諸々の雑念が湧くんです。それが、唯、御参りして、無事に行けたら、幸だ、そうすると気が楽になって、無心に歩けます。