そうして、ひたすらに高知に向かって歩き続けました。
海と川が一緒になって、今では、大きな橋が掛かって、ハイウエイになっている所に出ました、そこを、とぼとぼ歩いて行きました。そして青龍寺さんに辿り着きました。
三十六番青龍寺、このお寺も美しいと言うか、清らかなお寺でした。今でも目に浮かびます。このお寺は、お大師さんが、唐に渡った時に長安で、恵果和尚に真言密教を譲られた、で、何千人もあるお弟子さんの中から、日本から来た空海と言う一沙門に対して、僅か三ケ月位の間に全部譲ってしまう‥‥‥‥‥‥と言う事は、どう言う事かと言いますとね、真言密教を譲ったと言う事は中国にその事が残らないと言う事なんです。
一日本人、一沙門の空海に全て贈られたと言う事ですね、これは、大変な事です、しかし、これは、私が歩かしていただいて、つくづく感ずるのは、また、後になって、三教指帰、お大師様の書かれた本を読んでみて、つくづく感じますのは、お大師さんと言う方は、我三八の時と言いますから、二十四才にして阿国、大龍の峰に登り、土州、室戸の崎に於いて、谷響き惜しまず明星来迎す、と言う様に命掛けの修行をされているんです。
この命懸けの修行があったればこそ、恵果和尚がこの一介の沙門、空海を見た時、この人物と言う事を見込んだのだと思います。そう言った謂われのある有り難いお寺なんです。 青龍寺を出て三十七番岩本寺、この道のりもきつい道でした。岩本寺から三十八番金剛福寺まで百八キロあるんです、足摺の先まで。
ここをどんどん歩いて行った時は、勿論、間に宿屋に泊めていただきましたが、ここは、大関まで行った朝汐の生まれた所を通りました。
金剛福寺さんまで歩いて歩きぬきました、夜も七時を過ぎていたと思います、非常に寒いし暗い、この間、不思議な事に、電灯もつけなかったんです。見えるんです、見えないんですけど見える、そんな感覚が非常に深くしたんです、私のような者でも、見さしていただけたなぁと言う感じを、つくづく感じました。
これは何かと言いますとね、人間と言うものは、光を放つ、発光体だと思います、だから、真剣に自分が一つの目標に向かって歩いた時に、まっ暗い道であっても、分かる、町と違って、ネオンサインも電灯も街灯も無い訳ですが、見えて来る、かすかな明かりと言うものを感じます、それを頼りに道の石ころにけつまずこうが、何にしようが、一生懸命歩いていますと、自然に見えて来るんです。
こうして歩かしていただいていると‥‥‥‥四国四県でね、気質が違うと言うのがよく分かりました。例えば、道をしょっちゅう聞かねばなりません、阿波の人は、ああ行ってこう行って、こう行ってああ行って、と最後まで教えようとするんです、終いには面倒臭くて聞いていても、聞かんでもいいわと言った感じです。土佐人、この道を右にまわって、突き当たったら、誰かに聞け。こういう言い方、先の方を聞いても覚えんと言う話し方、ちょっと、荒っぽい言い方ですが、ここの人は、親切ですよ、お金を追い掛けてまで持って来てくれる。
前後しますが、いよいよ、室戸に着きました。
台風上陸の地、という碑が立って、あの時、小学校の女の先生が子供を庇って死んだ事があるんですが、実は、私の生まれた所、大阪、西区九条の小学校の話なんですが、九条東小学校、小さい時からなぜかその碑をみて育ちました、それが、あの晩、ここから、台風が上陸したんだな。車で、さあっと通り過ぎたんでは分かりません、丁度、お婆さんが居りましたので、「お婆ちゃん、どうやったの、あの時は、恐かったか」「恐いなんてもんじゃ無い、海が山になってきたけんな」「エエッ」ちょっと想像して見てください、海が山に、凄いでしょう。
山へ逃げろと、逃げ延びた人は助かった、海が山になった、想像した、恐ろしいな、自
然はね、どんな人間の考え方、ちょこまかした機械、コンピュータ、越えますよ、凄い事がおこりますから。そう言う事をね、一つ一つ教えてもらいながら行ったんです。
金剛福寺さん、足摺岬の先、ここまで何と百八キロ、どんどんどんどん歩くんです、その間、一ケ寺も無いんです、その前は固まって十ケ寺あったんですが、海は広いでしょう、そこに見えているのに、なかなか、つかないんです。
金剛福寺さんに着いたのは、九時頃でした、この時、夜遅くまで歩いた最高だったと思います。こんな遅く、と大分ぼやかれましたが、冷飯をいただき、泊めていただきました。このお寺には中岡慎太郎の銅像がありました。お寺の横にあって、拝見させていただきました。
私の好きな坂本龍馬の銅像が桂浜にあるんですが、この桂浜へ廻ると言う事自身、そこの、近くを通り掛かった時に、一時間回り道すれば、いけるんですが、それを、やったら、私は、お四国回り切れなかったと思います。観光と言う感じで廻ってはいけない、御参りに来た限りは、その事に専心する、唯それだけを願う、そう言う一途な姿勢が無いと、歩き抜けないと思います。
翌朝、そこの住職が庭を掃いていたので「道、どう行ったら好いか」と尋ねると「それは、引き返して三原村と言う所に行ったらな、善根宿とかがあると、聞いた事があるの」「えっ、善根宿、今の時代にそんなもんが、あるんですか」善根宿と言うのは無料で泊めてくれる所なんです。
で、またてくてく歩いていると、後から自動車が追いかけてきて、私のそばで止まって、ドアを開けて「遍路さん、乗って行きませんか」と言うのです、その時、はっと、思い当たる事があったんです。ここまで来る途中で、小さな田舎家で、小母ちゃんから、お茶の接待を受けたんです、その時、奥で晩酌していたおんちゃんなんです。ちょっと、軽く酒の匂いで気が付いたんです。その車が見えなくなるまで、手を合わせて、その方の交通安全をお祈りしました。
でも、今回は素直に有難うございますと乗せていただきました。と、申しますのは、この寒空の夜道を、良い機嫌で晩酌していて、見知らぬ一遍路の為、わざわざ車を出して、おっかけてきますか。私ならやりませんね、一杯飲んで、ご機嫌で、何が悲しくて、こんな寒空に車を出しますか、身も知らぬ人に。
胸が熱くなる位、感激しました、で有り難く、乗せていただきました、初めてです、車に乗ったのは、それ一回だけでした、三分位でしたが。有り難かったですね、本当に、現在は何でも、あります、外国の物も、冷蔵庫、開ければ何でも入っています、本当に冷蔵庫をすっからかんにして、自分が一日に、見直す日があっても、私は罰が当たらんと思います、今、とぼとぼ歩いている私には、何も無いンです、今晩は、はい、有難うございます、何もありません、水ばかり、茶腹も一時で、あい過ごさしていただきます、そんな様にやって来たんです。
さあ、止まった所が立派な酒屋さんなんです。宿屋に行くもんと思って居ましたから、驚きました、「ここですか?」「気に入りませんか」「いや、滅相もない!」
おんちゃんは、ずかずか、玄関に入って声をかけるんです。中からきれいな奥さんが出て来て、どうぞ、と言うんです。ここが、善根宿だったんです。しかも、お大師さま以来、一千年続いている善根宿だったんです。
善根宿なんて、看板、あげていません。本当に実行する人は、そ知らぬ顔している、うちはやったってんねん、なんて顔、一切しない。お風呂をよばれ、夜食をいただき、しかも、コーヒーまでいただきました。コーヒーほど贅沢なものはないですよ、別に腹が膨れるわけでもなし、飲みたくても飲めません、おいしかったですね。出掛けに、お弁当までいただきました、有り難かったですね。
お礼と言っても残す物もありません、般若心経、一巻を書かしていただき、お便所の掃除をさせていただきました、便器に便がこびりついて、なかなか取れないので、爪で掻き落としました。一生懸命磨かしていただき、きれいも汚いもありません、こんな、きれいな家に掃除をさしていただけ、私のほんの気持ちだけ、これしか出来ない、さしていただきました。
翌朝、弁当いただいて、その弁当は今日の、朝食、いただいたから、昼抜いて、夜の食事に当てようと思いました。今夜は素泊りしても食事は大丈夫、有り難いなあと、思わず、涙がこぼれてくるんです。あの時、私は、善根宿から朝のうち中、泣きながら歩きました、おいおい声を上げながら歩きました。
有り難いなあ、今はそんなに人の気持ちが冷たい世の中です、しかも千年、脈々と続いている善根宿と言うこう言う奇特なお人がある、その上に私をそこへ運んでいただけた、あの、おんちゃん、こんな事は世の中ないですよ。
声をあげ、泣きながら歩いた、だから、力が付いた、よし、次は伊予から讃岐必ず行く、お母ちゃんに会える所まで行く、と私は勇気をいただいて、その時その時の心をいただきながら‥‥‥‥‥‥‥‥そうすると、銭金や無い、銭金よりも、もっと嬉しいものが、この八十八ケ寺の想いの中にある、あるやろ!と言うことを私は、詰まらぬ、初めは何も分からぬ奴が、一歩、一歩手に取るようにして、色々な人から、いろんな事を一つ一つ学びながら、私はずうっと、これから又、伊予へ向かって行ったんです。