いよいよ‥‥‥‥讃岐。
 お母ちゃんに会いに来るんだったら、その時、ぱっと、聞こえて来たんです。「私に会いたかったら、お父さんを分かってからおいで!」「そうや!この名古屋の親父さんを、どうでも、雲辺さんへおつれする」と決心しました。
 早いほど良い、遍路の早立ちと言いまして、朝は、何時に発っても良いんです。朝飯替わりに、椿堂で、大きなぼた餅を、二ついただき、二時に発ちました。山道に掛かる頃に、明ける、四時間位、歩きましたか、山道に掛かる頃、鈴木さんが、私の親父さんの立場の人が、「もう、お腹がへって来た、食べようか」と言うので、「はい、食べましょう」で、一つ出して渡し、私はこの、ぼた餅は、昼かあわ良くば、晩に食べようと、取っておいたんです。「やっぱし、違うわ、力餅、食べたら、力が付いて来た、行こう」とまた歩き出したんです。
 私はその道中で、鈴木さん、元気の様でも、やはり、年ですし、山も険しいですから、休みの度に、一つ一つ、荷物を引き受けて、登って行ったんです。最後には、その人の荷物、全部持って登って行きました。

 十二時頃、また「お腹がすいてきた」それはそうでしょう、朝の二時から歩いて、八時頃食べても、昼でしょう、「お腹へってきたなぁ」とくるから、「昼飯にしましょうか」と、こう来る、物入れから、餅を出す、鈴木さんは、それを見て、「あっ」と、「あかん、それは、あんたの分や」「いえ、僕は、お腹すきませんのや、ずっと、旅慣れしてますので、お願いいたします、食べてください、お願いします」「そうか、悪いのぅ」名古屋弁で言って、食べてもらいました。
 そして、雪の雲辺寺さん、滑りましたが、無事、打たしていただきました。山から、降り下り‥‥‥‥

 「あんた、お母さんに、勉強してるのう、遍路が遍路を接待するのもおかしいけど、今晩、あんたは、金、持ってないやろ、よし、今夜は、俺が接待する」嫌も応もなく、宿に連れられてしまいました。「君、お酒、飲めるんか」「ハイ、好きです」「飲め飲め、かまわん」三本、いただきました、それ以上飲むとしんどいですから、飲ましていただいて、翌日鈴木さんを、バスステーションまでお送りしたんです。それが、不思議な事に、七十三番出釈迦寺と言う所があるんですが、空海が子供の時に、もしも私が人類を救えん様な人間だったら、此処で死なして下さい、と崖から飛び降りた所、お釈迦様の手が現われて、救ったと言われる出釈迦寺と言う、お釈迦様が出たと言う寺、その寺で、ばったり会ったんです。

 私は歩いているでしょう、むこうは、電車バスで行ってるのに、あんた足、早いなあ、これはご縁や、もう一晩、泊まろう、またご馳走になりました。その人も忘れられない方です、私は遍路で、もう一つの条件は名乗らない、大阪、堺の○○ですと、名乗らない、だから、鈴木さんにも、私は名乗らない、写真を写って下さったんですが「送り様が無いじゃないか」と言われたので、「そちらのお名刺いただいて、帰ってから、お手紙、差し上げましょう」そうして別れました。
 と言うのは、お遍路と言うものは、托鉢して、分かる様に、皆さんからいただいて、歩いているから、どこでも、のたれ死する訳、唯、そこで、迷惑掛けてはいけませんから、平井先生のお名刺をいただきまして、太陽保育園、平井先生の裏に死体引取り人と書きまして、私の住所、氏名、一切、持って行かない、もしもの事があれば、平井先生にはご迷惑でも、頼みまっせ‥‥言う気持ちで、そう、さしていただきました。
 ですから、私には、一切、証明するものが無い。しかし、お大師様が知っている、同行二人、お大師さんと一緒、何よりもかによりも、自分が一番よう知っている。バスに乗った、電車に乗ったか乗らなかったか。何より、自分が一番知っている、これ程、確かな証明は無いですよ。
 テレビで写っている犯罪を見て、ああ、自分のやった事をやってない、と言う犯罪の卑劣さ、それだけで、罰を受けていますわ、やったもんはやった、正直に、やっていないものは、やって無い、いえ、私は一切車に乗ってません、乗らずに行きました、とは言ってません。さっき、言うた様に、車に乗せていただきました、追いかけてまで乗せてくれた、あのおんちゃん。

 人間とは、そう言うものだと思います。なんぼ、繕うても、繕い切れない、自分自身の心なんです。私は、神仏、昔から色んな名前で呼ばれてますが、そう言う事やなあ、自分の本当に清い気持ちには嘘はつけない、それが、一番よく知っている、その人の力を我がものとして、自分の心を正さす限りに於いては、自分の病気は自然に治って来る。
 私は心筋梗塞になって、ニトログリセリンと言う薬があるんです、あれを、手放しているんです、もう‥‥‥‥あれ、心臓病の人に聞いていただいたら分かりますが、不安ですよ、最初、あれが無くても、自分は自分を生かせるとは、そう言う事やと思います、自分の心に正直にして、正しい呼吸法をして、瞑想していたら、収まって来る。
 それは、お四国を廻らさしていただいてあの方、お大師さまの力。自分を出し切ったと言う事。お大師さまの心が、そうや、自分が満足したら、それで良い、自分が普段感じている通り、行を行なっていけば好い。

 私はお四国を歩かさしていただいて、やりきったと思っていません。まだまだ修行を続けて行きます、然し、あの時は、あれなりに、出し切ったな、他の事は仕方無かったなと思っています。そういう気持ちが、私は病気を直していくもんやと思います。自分の身体の中に、奥底に、毒も薬も皆持っているんだと思います。例えば、人を誹って、怒って、叫んで、一辺に、死んでしまいます。喧嘩する度に体、悪くすると、思います。
 ですから、お四国を歩かせていただいて、分かった事は‥‥‥‥唯、ひたすらに、淡々と、対立の無い生かし合い、唯、ひたすらに、淡々と‥‥‥‥これが、ふっと、出てきたんです。対立の無い生かし合い、物凄く対立しているんです、私達、人と比べ合いしてたんです、なぁに、負けるもんか、負けても勝っても、同じ事、と言う事が、何となく、納得出来る様になり、あぁ、この生き方で、今後、生かしていただこう。

 ですから、トイレに入る、私ね、こう言う事してますとね、一日、六回トイレ行くんです。便秘、ヨガでは一日、一回は便秘すると言います。六回行きます、不思議に、駅で、便所へ入りますわ、今ね、駅の便所、汚れて、新聞紙がちらばって、あれを、掃除するんです、中には、便器の外に、もっこり、汚物が積んでありますわ、便器の中にすれば良いのにね、それを綺麗に素手で掃除するんです。
 お遍路の時、便所を磨いた癖がついたんですね。そうする事が、気持ちが好いんですよ、自分が‥‥‥‥便所掃除したら好いと思いますよ。初めは、汚いと思うでしょうが、水で洗ってしまえば綺麗なもんですよ、気持ちがすかぁっとして、好い気持ちですよ。そのまま出た時は、何か残るんですな。
 私だって、たまに、よそに行く時は、すっきりとスーツで決めて行かなければあかん時もあります、そんな時、便所に入って、これから人を訪問するのに、服を汚しては具合悪い、えらい、すいません、今日は勘弁してくだされ、逃げる時もあります。

 何にしても、すかっとして生きて行く方が気が楽ですわ。お金、持ってる、持たない、あまり関係ない様にに思います。必要なお金さえあったら、それで良いんだと言うのが、托鉢さしていただいた、お遍路の結論です、無ければ無いのもまた良し。
 托鉢してますと、心経一巻、大分、慣れて来た時分でも、宗派が違うんでしょうかね、有りますでしょう、絶対、他のものを認めんと言うのが、旨いことやりますよ、外へ出て行く振りをして、ぽんと当てるんです、肩でごーんと、こちらは、経、上げてますから、隙だらけですわ、おまけに御飯食べていないから、腹減っていますわ、どんと、よろけますわ、有難うございます、絶対、怒りません。
 そうするとね、人の心が分かってきます、山は上から見れば、景色が分かります、道も分かります、人は下から見た方が、よく分かります。なんぼ、俺は偉いんだと、言う必要無いなと思いました。あっ、そんな事する人は、気持ちが寂しいんやなぁ、何で人を受け入れると言う気持ちに、それは、宗教上の違いか、何の違いか知らんけど、せんでも、ああする人の心は寂しいんだな、気の毒やなぁ、何とかして上げたいけど、僕には、まだ力が足りない、御免なさい。そう言う気持ち、それが、町を歩いている時の以前の私だったら、ちょっと待て、まるで、やくざ、大立ち回りでしたろう。だから、お四国と言う所はね、本当に有り難い所です。

 電車、バス、観光バスで回られるのも結構です。だけど、一ケ寺ぐらいは歩く、三軒でいいから、托鉢してみる。私はこれをお勧めします、そしたら、一銭も貰えんでも、何か分かる様な気がするんではないかと信じています。