高野山・奥の院(恒例の蛍見の会参加の途次に) 2006.06.17

いつもですと熊野に行くには国道169(熊野街道)か168(十津川街道)のいずれか
で行くのですが、今回は同行したツル姫さんが高野山にお参りしたいと言われるので、
高野山経由龍神スカイラインを通って熊野に行きました。
結果的には和歌山県大塔村の紀州松煙工房に直行するのだったらこのルートが一
番早いことも判明しました。

京奈和道が五条市と橋本市の一部で開通したために、橿原神宮前駅から約1時間40
分で高野山奥の院に到着しました。

奥の院には弘法大師の御廟があり、それに向けての2キロの参道の両側に数十万基とい
われる石塔が建ち並びますが、その大半が戦国時代から江戸時代にかけての大名のもの
で、見ごたえがあります。

徳川家康の次男、結城秀康とその母親の墓

母親が身分の低い女だったため、家康は最初認知したがらなかったのですが長男信康の
強い諫めがあったため、しぶしぶ家康は認知したそうです。
後に人質代わりに豊臣秀吉の養子となり、そのため、秀吉と家康の両方の名をもらって秀
康となりました。
後に名門結城家を継ぐことになり、武将としての器も優れたものがあったようですが、家康
の長男信康の死後、次男の自分を差し置いて三男の秀忠が将軍職を嗣いだことに対して
忸怩たる思いを抱きながら若くして不本意の生涯を終えたと言われてます。
近世の代表的な霊廟建築として重要文化財に指定されているこの墓所は父親の家康が
建てたそうですが、親としての愛情を感じること薄かった息子へのせめての罪滅ぼしの思い
があったのでしょうかね。
秀康の息子は菊池寛の小説「忠直卿行状記」の主人公となった悲劇の武将です。
中学生のときに見た市川雷蔵主演の同名の映画は40数年以上経った今でも印象深く記憶
に残ってます。


これらの石塔はすべて高野山の外部から運び込まれたものですが、運搬の負担を軽くする
ために石の中はくりぬいてあるそうです。いわゆる”張りぼて”というわけです。
団体のガイドさんの話しの受け売りです。

豊臣家の墓所です。

滅んだ家なのに高野山が秀吉によって所領を安堵されたおかげでしょうか、それとも豊臣家滅亡後も
家康によって厚遇された秀吉の妻、高台院の尽力のせいでしょうか、他大名家に比べても広く立派です。

それに比べて貧弱なのが織田信長の墓所

他大名家の墓の隅っこの方にぽつねんとうら寂しく建てられているのです。
「比叡山を焼いたりするからですよ」と信心深い同行のツル姫さんが言います。
しかし、すぐ隣に信長を裏切って滅ぼされた筒井順慶の墓をもってくるとは一体どんな
了簡なのでしょうね。
高野山の意向だったとしたら発案者は相当いい性格をしてらっしゃるようです。

違う意味で意外だったのが浅野内匠頭の墓所

忠臣蔵で庶民にもつとに人気のある大名であり、赤穂浪士の菩提碑もあるというのに意外
と献花が少ないのです。

修猷館高校にも縁の深い筑前黒田家の墓所です。五十二万石の大大名にしちゃ、ずいぶん
質素ですね。


法然上人の墓所の前ではツル姫さんは深々とお参りをされます。


在日朝鮮人の家なのでしょうか、 それとも韓国人の家のものなのでしょうか、チマチョゴリ
姿の像がある墓所がありました。


ここから奥が弘法大師が眠られる御廟のあるところですが、この橋から先は写真撮影は禁止。

奥の建物が御廟と勘違いしてそこでお参りをしただけで帰ってくる人があるそうですが、御廟
は建物の横手を回った裏にあります。
御廟の前に多くの人が一心不乱に祈る姿は鬼気迫るものがあり、それをお伝えできないのが
残念です。ツル姫さんはきっかり8分間祈り続けました。彼女は自分自身のことで祈ったことは
一度も無いそうで、両親のこと、子供達のこと、不幸に悩まされる友人たちのことをいつも祈願
するそうです。
ここを訪れると日本人の抱く、お大師さま信仰の根強さを実感させられます。
ツル姫さんから聞いたのですが、吉野の人たちは死んだら高野山に分骨する習慣があるそうで、
ツル姫さんの最愛の祖父母さんもここに分骨されているとか。
そしてKO-BUNさんのこの前亡くなられたお祖母さんの納骨の日が今日にあたるそうで、多分、
KO-BUNさんも高野山に来ているのではないか、と言いますので電話したところ、高野山の分
骨は先の方でやる予定で今日は近くのお寺での納骨です、とのKO-BUNさんの返事でした。

高野山を出発したのは午後1時半でした。
奥の院の先から始まる龍神スカイラインを大塔村に向かってすっ飛ばします。

最高千メートル標高の尾根の上を走るノンストップの道路です。

紀州松煙工房での蛍祭りはかくの如くでした。