久しぶりの大峯・台高(2) 2006.07.30〜31
行者還トンネル口から上北山村の温泉に行って汗を流し、和佐又山ヒュッテに着いたのは午後5時半でした。
岩本さん夫妻もお嬢さんも暖かく迎えてくれます。泊まり客は何と私たち家族だけ。
夏休みだというのにこれはもう大峯の神仏からのご褒美と私は思ったものでした。
画像は部屋から見る風景。見るだけで心が和み、慰められます。和佐又山は私にとっては心のふるさと、
憩いの別天地です。
夕食は6時からなので、散歩に出ます。
ヒュッテそばの木に和佐又号君が繋がれてます。オイタが過ぎて集団から引き離されて繋がれているよ
うで、娘が可愛がると狂ったようにじゃれてきます。何代目の和佐又号君なんでしょうね。私が初めてここ
を訪れたのは今から21年前。その当時居た和佐又号君はもう生きていないはず。
栃の大木です。
どのくらい大きいかがこの写真から判るでしょう。
栃餅の原料になる栃の実がなってます。
栃の木そばにある樅の木です。こんな松ぼっくりのような形をした樅の木なんて皆さん、見られたことが
無いでしょう?
岩本さんが和佐又山ヒュッテの管理人を引き受けた時に植樹したそうで、22年経つそうです。
昨年、クリスマスツリーのイルミネーションを仕掛けたらという客の要望に簡単な気持ちで取りかかったそ
うですが、本格的な足場を組んだり、想像以上の苦労を強いられたそうでもう一回きりにしました、という
ことです。
家内と娘は和佐又号君とくつろいでます。
娘はずっと和佐又号君と遊んでいるから、ということで私と家内で散歩に出かけました。
ウバユリです。
私みたいな花、と家内が言うので「そんなわびしいことを言うなよ」とたしなめました。
ヤマユリです。岩本夫人の話では鹿が食べるので以前に比べて激減したとのこと。
坂を登っていくと真っ白な、あきらかにカバノキ科の樹木を思わせる木が立ってました。
大峯でお馴染みのダケカンバにしては色が白すぎる、大峯には植生しない白樺を植樹したのだろうかと
思いましたが、後で岩本夫人に尋ねたらやはりダケカンバでした。
上の方のキャンプ地に行くと、何と昼間に出会った八戸工業大学付属高校のパーティのテントが張って
あるではないですか。
もう一度、会って話しをしたいなと思ったのですが、一行は外出中なのかコトッとも音がせず、私たちは諦
めてそこを去って行きました。
6時過ぎにヒュッテに戻ってくると食事の用意ができておりました。
食材は山菜から川魚、鹿肉に至るまですべて大峯で採れたものばかり。豆腐も岩本夫妻が推奨の上北
山村の豆腐屋で造られた物。
これらを食しながら飲む生ビールの美味いこと!
ふと同じテーブルの隣で穏やかな笑みを浮かべてビールを飲んでいる御仁にもご挨拶をと思って声をか
けると、何と、昼間に出会った八戸工業大学付属高校山岳部の顧問の先生でした。
ひえぇぇ!何とラッキー!と私は歓喜しました。
この爽やかな高校生山岳グループとの邂逅を画像入りでホームページに紹介したかった私としてはその
ことを承諾願いし、もっと詳しい話を聞けると思ったからです。
樋口先生は私たちがヒュッテに戻ってきたとき、はなから大峯の尾根で出会った家族ということに気づい
ていたそうですが、声を掛けられるまでは決して自分の方からは名乗りでなかったようで、東北人の慎み
深さを実感しました。
しかし、一度言葉を交えるとこの東北の先生は大変愛想よく談笑に応じてくれ、その味のある東北弁独特
のイントネーションは私をして壬生義士伝、白虎隊の世界に誘わせ、心地よい交流の場に嵌らせてくださっ
たのです。
ホームページで画像共々紹介することを快諾してくださり、生徒たちも喜ぶと思います、とまで言って下さい
ました。
そして類は類を呼ぶという格言どおり、私たちの談笑中に樋口先生の知人らしき人がヒュッテに入ってきま
したが、この御仁がまた大峯に深く関係している方でした。
お名前は鎌田誠明さん。
頂戴した名刺に記された職業は運転代行全般。
飲酒運転に対する罰則が厳しくなった当世のために始められた仕事ではなく、大峯・台高の山々を登る登山
家、修験者、ハイカーたちの車の回送を目的とするお仕事だそうです。
大峯を縦走するときにいつも悩みの種となるのがこの車の回送であり、グループによっては2台以上の車で
やってきて登山口に仲間達を降ろした後に運転手だけ乗って2台で下山口まで行き、1台を置いてきて登山
口まで引き替えしてそこで初めて山登りをするという工夫をするのですが、縦走する距離によっては相当の
時間的ロスを覚悟しなければならないのをこの鎌田さんのような運転代行をしてくれる人があるとかなり時間
を節約できるのです。
短時間お話をしただけですが、八戸工業大学附属高校山岳部も、この後ヒュッテの風呂に入りに来た九州の
高校の山岳部も車の回送をこの鎌田さんに依頼されるのが解るくらい、お人柄も信頼できる御仁です。
大峯の縦走を考えておられる方がおられましたら、是非、この鎌田さんに依頼されることをお勧めいたします。
連絡先:マイカー回送 かまた
奈良県吉野郡上北山村小橡31
TEL&FAX:07468−3−0191
E-mail:maika-@m5.kcn.ne.jp
樋口先生がインターハイではいつも一緒する機会が多い、というライバル校の九州の高校の先生がヒュッテ
にやってきました。
何と(今回はこの”何と”の嘆声が多いことか!)、大分県豊後竹田市の竹田高校山岳部でした。
豊後竹田は滝廉太郎の「荒城の月」で有名な岡城がある町で、滝廉太郎も幼少時代をこの町で
過ごしたのでした。
岡城は「荒城の月」だけが売り物の城ではありません。
戦国時代、衰退著しい九州の名族、大友氏を席巻せんと豊後の地に押し寄せてきた島津の大軍に
城を囲まれながらも岡城主だった志賀親次は大友氏に忠誠を誓って籠城し、ついには持ちこたえて
島津の軍を撤退させたという輝かしい戦歴を持つ城なのです。そのときの志賀親次はわずか21歳
の若者でした。
そのことを話題にしたところ、まあ、よくもそんな九州の片田舎の歴史のことを詳しくご存じで、と竹田
高校の先生は驚いておられました。
「お父さん、知識をひけらかしているように思われるよ」と一部始終を目撃していた娘から注意されま
したが、「誰でも自分の郷里のことを賞賛されて悪い気持ちになる人はいない。お父さんは小学生の
ときからこの志賀親次の武勇のことを知って深く心に刻みつけられていたその感動をその地元の人
に会ったときに伝えずにはおれなかっただけ」と答えました。
キリシタン大名として有名な大友宗麟は非常に複雑な性格の、ある意味では軟弱な戦国大名でした
が、その配下にはこの志賀親次や立花道雪、高橋紹運といった鋼鉄のような忠義と信義を貫いた武
将が目白押しにいたことでも有名な大名でした。
これらの武将が一般にはほとんど知られていないこと、それが私には残念でしかたない思いがあり、
こういうときについ触れたくなるのです。
「しかし、今夜ヒュッテに集まる人たち、みんな豪傑のような雰囲気を持っているね」と娘がぽつりと言い
ました。
食堂の壁にはインターハイのポスターが貼ってありました。
その夜の和佐又山ヒュッテは布団を被らなければならないほどの肌寒い秋の気候でした。
画像は日没直前の風景です。
(続く)