反軍演説の抜粋

このたびの戦争はこれまでの戦争と全く性質が違うのである。このたびの戦争に当っては、政府はあくま
でも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所よりこの東亜の形勢を達観している。
そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂は紘一宇の精神をもって東洋永遠の
平和、ひいて世界の平和を確立するがために戦っているのである故に、眼前の利益などは少しも顧みる
ところではない。これが即ち聖戦である。 神聖なるところの戦いであるという所以である。
(中略)
その言はまことに壮大である。その理想は高遠であります。しかしながらかくのごとき高遠なる理想が、
過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やということについては、退いて考えね
ばならぬのであります。(拍手)いやしくも国家の運命を担うて立つところの実際政治家たる者は、ただ
徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤る
ことがあるのであります。
現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります、まず第一に東洋永遠の
平和、世界永遠の平和、これは望ましきことではありまするが、実際これが実現するものであるか否やと
いうことについては、お互いに考えねばならぬことである。古来いずれの時代におきましても平和論や平
和運動の止むことはない。宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平和を唱える。
また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ないのであります。しかしながら世界の
平和などが実際得られるものであるか、これはなかなか難しいことであります。
私どもは断じて得られないと思っている。十年や二十年の平和は得られるかも知れませぬが、五十年百
年の平和すら得られない。歴史家の記述するところによりますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年
の間において、世界平和の時代はわずかに二百幾十年、残り三千二百幾十年は戦争の時代であると言
うている。かくのごとく過去の歴史は戦争をもって覆われている。将来の歴甕は平和をもって満たさるべし
と何人が断言することが出来るか。
(中略)
この縮小せられたる世界において、数多の民族、数多の国家か対立している。そのうえ人口は増加する。
生存競争はいよいよ激しくなって来る。民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起こらざるを得ない。
しかして国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、この世界において国家が対立しており
まする以上は、戦争の絶ゆる時はない。平和論や平和運動がいつしか雲散霧消するのはこれはやむを
得ない次第であります。
(中略)
即ち人間の慾望には限りがない、民族の慾望にも限りがない。国家の慾望にも限りがない。屈したるもの
は伸びんとする。伸びたるものはさらに伸びんとする。ここに国家競争が激化するのであります。なおこれ
を疑う者があるならば、さらに遡って過去数千年の歴史を見ましょう。世界の歴史は全く戦争の歴史である。
現在世界の歴史から、(発言する者多し)戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。そうしてーたび戦争
が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の
争いであります。強弱の争いである。強者が弱者を征服する、これが戦争である。
(中略)
今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わしておりますが、この正義論の価値は知るべきのみであ
ります。つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。(拍手)羊の正義論は狼の前に
は三文の値打もない。ヨーロッパの現状は幾多の実例を我々の前に示しているのであります。
かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾
力の競争である。世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。我々は偽
善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何で
あるか。日く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者
が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならな
いのであります。
この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばなら
ぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。