3/26 2007掲載

 

ロシア偵察旅行 サンクト・ペテルブルグ

 

偵察旅行と銘打ったのは言葉解らない文字読めないに加え、どうも取っつきにくい印象のあるロシア、まずは様子を見てみようというわけです。2006年秋のことでした。

サンクト・ペテルブルグの第一印象は水の都。ヨーロッパに「北のヴェニス」と呼ばれる都市は幾つかありますが、ここは「最北のヴェニス」。夏は白夜がある。もう少しで北極圏です。観光船でクルーズしました。

 

ネヴァ川から見た冬宮。ロシア帝国・ロマノフ家の居城。圧政の本拠地。革命の舞台。現在はエルミタージュ美術館という、世界最大規模の美術館です。ネヴァ川は東から西に流れ、バルト海に注ぎます。

 

開祖ピョートル大帝の騎馬像後方は旧元老院。ピョートルはスウェーデンとの戦争に勝ってこの地を奪い取ると、バルト海への出口を確保するためすぐさま家臣達に命じて都市建設に着手し、首都をモスクワから遷都し、信奉していたロシア正教の使徒聖ペテロに捧げる都市、サンクト・ペテルブルグと名付けました。18世紀初頭のことです。

 

聖ペテロと聖パウロの名前を冠したペトロバヴロフスク要塞。フィンランドのヘルシンキまでわずか200kmほどしか離れておらず、外敵(第一にはスウェーデン)からこの都市を守るためには不可欠でした。19世紀には政治犯の収容所でした。

 

ネヴァ川にかかる橋。ネヴァ川に架かる橋はすべて開閉橋です。午前0時から4時まで橋中央部は開いているそうです。この橋はたしか焼酎メーカーがテレビコマーシャルに使っていました。なかなか美しい橋です。ネヴァ川は近くの湖からバルト海までの数10キロ程度の短い川ですが、船舶は河川と運河を渡り継いで黒海に抜けることが可能だそうです。すごいですね。

 

ここは元来沼沢地で都市建設は難工事。多大な犠牲者が出たそうです。洪水を防ぐために町の中に幾本もの運河が掘られました。今はこのように美しく整った景観が見られます。

 

観光と貨物輸送に運河の水運はなかなか活発です。

 

これはビーフ・ストロガノフで有名なストロガノフ公爵邸です。1917年の十月革命からいつ頃までか、このような貴族の屋敷はプロレタリア階級に解放され、平等の原則の下に一部屋一家族、キッチン、トイレ、バスは共用という時代が長く続いたそうです。現在は青少年用の何かの公共施設になっていました。

 


雨の中、結婚式に急ぐカップル。日本のような大々的結婚式産業は無いそうです。教会または役所で式を挙げて、ピョートル大帝騎馬像を背景に記念写真を撮り、レストランで家族と友人達を招いてパーティとか。

 

美しい装飾のある橋。緑も多い。20067月に当地で主要国首脳会議(G8サミット)が開催され、ロシアはこの時とばかり国を挙げてこの町の化粧直しをしたそうです。

 

今でこそサンクト・ペテルブルグは文化都市、観光都市として脚光を浴びるようになりました。しかし1981年私の義兄がこの町を訪れた時、町は灰色に煤けて暗かったそうです。見慣れない東洋人なので、少し離れたところから監視されているのに気付き、不愉快な気分になったそうです。義兄に今度の旅の写真を見せると、見違えるように美しく、夜は明るくなっていることに驚いていました。2ヵ月前に主要国首脳会議(G8サミット)が開催されたのは、私たちにとって実に好いタイミングでした。

 

あの金色の塔がいかにもロシアの景観ですね。

ところでどうしてこの町の名前サンクト(聖人)とかブルク(城壁で囲まれた都市)とか、ドイツ風の名前なんだろうとずっと前から不思議に思っていたのですが、これはオランダ風の名前なんだそうです。ピョートル大帝が若い頃お忍びでヨーロッパ各地を廻り、オランダが気に入ってそこで造船技術などを学んだ。そこで自分が造る首都をオランダ風の名前にしたそうです。ロシア語ではサンクト・ピーティエルスブルクと発音しています。

 

ピョートル宮殿。ここは庭園の噴水が有名です。日本のテレビでも何度か紹介されています。ロシアが田舎だなあと思うのは、あちこち金色の装飾が目立つんです。

 


ドームの上には金色のキングギドラ。(注:三つの頭と巨大な翼を持つ金色の宇宙怪獣。我がゴジラに撃退された)

 

宮殿の中は最盛期バロックの金きら趣味。

 


部屋々々にドアを付け、向こうの方まで一直線に見通せるようにするのは、ヨーロッパの宮殿で通常見られる建築様式です。国によって名称が違いますが、ロシアではアンフィラーダと呼ぶようです。もちろん主に使用人が使う廊下は別にあります。

 

この宮殿のペチカはほとんどデルフト製タイルで装飾してありますが、それはピョートル大帝がオランダを愛したからです。ペチカはロシアだけでなく、北ヨーロッパの大邸宅で広く普及しました。タイル張り暖炉とも言います。壁の裏側に使用人用通路があり、そこで薪を燃やします。

 

宮殿の周囲は広々とした庭園。木々の紅葉も遅れ、例年より暖かい秋でした。

 


キリスト復活教会。うわー、ロシアだ!

あのネギ坊主の中、、。

 


キリスト様が見下ろしていらっしゃる。

罪ある人は思わず「お許し下さい」と、ひざまずいてしまう。

 

食事は毎回このような「壷もの」が出てくる。寒い国だから、こういうのが好まれるんだろう。肉、芋、キノコなどが入っている。これは生クリームがかけてある。美味しいけど、ちょっと食べにくい

 

昼間写真に撮っておいたこの小さな劇場で、、

 

夜バレエを見ました。

 

出し物は定番、「白鳥の湖」。フラッシュ無しなら写真撮ってもよいということなので、、。

 

小さいがちょっとしゃれたフォワイエ。

 

幕間の軽食。

 

日々化粧直しが進んで綺麗になってゆくこの町も、第2次世界大戦中の辛く、悲惨な歴史を忘れることは出来ません。ドイツ軍とフィンランド軍に包囲され、エルミタージュの美術品は間一髪ウラルの山中に難を逃れましたが、町は激しい砲撃を受けました。大戦前300万人いた人口は戦後200万人に減っていました。死者の大半は爆撃ではなく、餓死だったそうです。最悪期には電気も暖房も一切無く、人肉を食べることは半ば公然化したそうです。私たちがこの美しい町を訪れ、バロック宮殿を訪れ、エルミタージュ美術館でレンブラントやセザンヌやマティスやラファエロをゆっくり鑑賞出来るのは、それらの人々の犠牲の上に成り立っているのです。広島やドレスデンだけでなく、この町にも重苦しい歴史があることを知りました。戦争は嫌です。

 

(後半へ続く

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