8/5 2005掲載
悲劇の女王メアリー・スチュアート
k.mitiko
歴史上の女性シリーズ5回目は、その悲劇的な生涯が文学に演劇、映画
などで繰り返し描かれたスコットランドの女王、メアリー・スチュアートを取り上
げたいと思います。
メアリー・スチュアートは、彼女の終生のライバルだったイングランドのエリザベ
ス1世と共に同時代の、それなりに名のある多くの男性たちの存在がかすん
でしまったほど、大きなスケールと強い個性を持った存在の超一流の貴婦人
でありました。
それゆえに、メアリー・スチュアートを語ることはまた隣国の女王であり、また
従姉であるエリザベスを語ることにもなります。
16世紀にはイギリスと言う国はなく、南部にロンドンを首都とする新教(現在
のプロテスタント)のイングランド、北部に旧教(カトリック)のスコットランドと言う
二つの王国が宗教や領土をめぐり争っていました。野心的なイングランドのヘ
ンリー8世のため、スコットランドは絶えず脅威を受け、その影響で国内も新
教と旧教に分裂しておりました。そのため、スコットランド国王は、同じ旧教の
フランスとの結びつきを深めるためにフランスから王妃を迎えました。
ジエームス5世と王妃マリー・ド・ギーズ
スコットランドのジエームス5世と王妃の間に1542年に生まれたメアリー・スチュ
アートは、父の死によって生後6日にしてスコットランド女王になりました。ジエ
ームス5世は絶え間ないイングランドの侵攻と貴族たちの反乱のための心労
で若くして亡くなったと言われております。
ヘンリー8世
イングランドのヘンリー8世にとって隣国スコットランドに王女が生まれ、その父
親が亡くなったことはまたとない朗報でした。息子のエドワード皇太子(当時5
才)との婚約を目論み、スコットランド貴族の買収などの画策の結果、婚約
の成立にこぎつけました。
しかしメアリーの母后マリー・ド・ギーズはヘンリー8世に対して強い警戒心を
いだいてました。
自分の目的を達成させるためには手段を選ばないこの男は、男子の世継ぎ
を得るために旧教の妃を強引に離婚し、旧教から新教へと宗旨替えをした
人物で、結果的に6人の王妃のうち2人が処刑されるという悲劇が生じたの
です。
このような専制君主ヘンリー8世をひどく警戒するマリー・ド・ギーズは幼い女
王を人目の届かない修道院に匿いました。
王妃マリー・ド・ギーズ
一方旧教国のフランスもスコットランドとの同盟を固めるためにメアリー女王と
フランソワ王太子の婚約を望み、こちらの方はヘンリー8世が亡くったことで機
会を得て縁組が整いました。
メアリー女王は優しく献身的な母と別れ、彼女の遊び友達兼侍女を務める
同年齢の4人のメアリー(スコットランド有数の貴族から選ばれる)とともにフラ
ンスへ旅たって行きました。4人のメアリーの存在はメアリー女王の人生におい
てかけがえのない宝になりました。
このときスコットランド女王にして未来のフランス皇太子妃は5才でした。
13才のメアリー
16世紀なかばのフランス宮廷は数多くあるヨーロッパの宮廷の中でも最も洗
練された華やかな宮廷でした。イタリヤで始まったルネサンスがフランスでも花
開き、中世の騎士道精神とルネサンスの華麗な古典文化が一つになり、絢
爛たる宮廷文化が咲き誇っていました。
この様な宮廷に登場したメアリーはその愛らしさ、物怖じしない朗らかさで周
囲を魅了しながら未来のフランス王妃としての教育を受けて成長していきま
した。
フランス語、イタリヤ語、スペイン語はいうにおよばずラテン語、ギリシャ語など
にも秀で、13才のときにはルーブル宮で全宮廷人の前でラテン語の演説を読
み上げたと言われています。
文芸の才能とともに刺繍をすれば素人ばなれのした作品となり、馬に乗れば
男顔負けの手綱さばきを見せました。義父となるアンリー2世に「こんな完璧
な子どもはかって見たことがない」と言わしめる成長ぶりでした。
一方ライバルのイングランドのエリザベスはメアリーより9才年長でしたが、2才
8ケ月で母アン・ブリンが父ヘンリー8世によって処刑され、そのため身分を庶
子に落とされる状況の中で成長していきました。
王妃アン・ブリン
ヘンリー8世はアン・ブリンとの再婚のため最初の妃と離婚したときにも第一王
女メアリーを庶子にしており、2人の娘は父の強引さに振り回されていました。
アン・ブリンも男の子を産めなかったので、あてのはずれたヘンリー8世は次の女と
結婚するために姦通という濡れ衣を無理矢理着せて彼女を処刑したのです。
冷酷非道としか言いようのない話しで、3年足らずの妻の座でしかなかったアン・
ブリンは人々から「1000日の王妃」と言われました。
ブラッディ・メアリーと言われたエリザベスの姉
エリザベスは新教でしたが母の違う姉のメアリーは旧教徒、父が3度目の結
婚でやっと生まれた弟エドワードは新教と姉弟間でも宗教の違いがあり、エリ
ザベスの庶子の身分が回復されないままにヘンリー8世が亡くなったために、
後にスコットランド女王メアリーの運命まで大きく変えてしまう問題を残しまし
た。
エリザベス
16世紀のイングランドは、ルネッサンスの影響もあって女子教育に関しては
現代と肩を並べる水準に達していたといわれていました。
エリザベスも幼児期からイタリヤ語やフランス語を厳しく仕込まれ、6人目の
義母、王妃キャサリンのお陰で、ケンブリッジ大学から一流の学者が招かれ
ラテン語やギリシャ語、神学などを学びました。エリザベスは学問が好きで勤
勉であり、与えられるものを次から次へと吸収していく早さに周囲が舌を巻く
ほどでした。
教育に関してはルネッサンスの影響を受けた16世紀の宮廷で、苛酷なま
でのエリート教育を進めるイングランド宮廷と、スポーツや芸術という人生の
遊びの部分を重要視する風潮のフランス宮廷の違いはあっても生命力旺
盛で恵まれた資質を持ったメアリーとエリザベスという二人の高貴な女性は
優等生として育っていきました。
ノートルダム寺院
フランスの宮廷では、スコットランドの女王にして未来のフランス王妃である
メアリーはかけがえの無い存在として大事に育てられました。
1558年4月予定通り、パリのノートルダム寺院でメアリーと王太子フランソワ
の結婚式が行われましたが、メアリー15才、フランソワ14才でした。
200年ぶりの王太子の結婚式ということで絢爛豪華な式の主役は、幼児
期から病弱だったフランソワではなく美しく成長したメアリーで、180cmの
長身でありながら優雅な物腰と好みの白を基調とした洗練された装いに
作家ブラントームは「晴れ渡った真昼の陽光の輝き」と讃えました。
フランソワ2世と王妃メアリー
翌1559年7月国王アンリ2世の事故死で、王太子はフランソワ2世として
即位。メアリーはフランス王妃であるとともにスコットランドの女王であり、イン
グランドに関しても順位の高い王位継承権を有していました。メアリーの
人生の絶頂期でした。
即位式の エリザベス1世
1558年11月に姉のメアリー1世が亡くなって(弟のエドワード6世はその前
に亡くなっていました。姉メアリーは旧教徒のため新教徒を迫害したことで
血みどろのメアリーと呼ばれていました)エリザベス1世として即位した際、
アンリ2世が「エリザベスはヘンリー8世の重婚による庶子にすぎず、ヘンリー
8世自身も庶子扱いしていた。ヘンリー7世の曾孫にあたるメアリー・スチュ
アートこそ正当な王位継承者だ」と横槍を入れました。
(メアリーの祖母はヘンリー8世の妹にあたります)
そこでイングランド議会は改めて議決し、エリザベスを嫡出と認めました。
このときからエリザベスはメアリーを危険なライバルとみなし、メアリーはヨーロ
ッパ最強の女性を仇敵にまわしてしまったのです。
王妃 メアリー
6才にならないうちに王太子フランソワの婚約者としてフランスに連れてこら
れ、宮廷で一緒に育った2人は仲が良く、メアリーは病身の夫に優しく連れ
添いました。
フランソワ2世は生まれつき極度に病弱な体質だったためありとあらゆる病
気を持っていました。自分の弱さを克服したい、人気者の妻に遅れをとる
まいとする思いは強く、焦りもあって、あらゆる激しい運動や狩に自分を駆
り立ていき、3日と同じ城にとどまらなかったそうです。
過度の運動が軟弱な身体を蝕むことを心配する母のカトリーヌ・ド・メディチ
や妻のメアリーが必死に止めても聞き入れなかったフランソワ2世は16歳の
若さで亡くなりました。
王妃 メアリー
1560年フランソワ2世が亡くなるとメアリーは18才の若さで未亡人になりまし
たが、フランソワ2世との間に子どもがないため、メアリーの残る身分はスコッ
トランド女王だけになりました。しかもフランソワの死から半年足らずで今度
は母のマリー・ド・ギーズが亡くなり、帰国せざるをえませんでした。
華やかなフランス時代は終わり、それは19才のメアリーの青春の終わりでも
ありました。
フランスを離れるメアリー
やむなく1561年メアリーはフランスを去ってスコットランドに帰国しました。
13年ぶりに帰国したスコットランドは新教と旧教の対立が激化し、国民の
ほとんどが新教徒となっておりました。そんな状況の中、旧教の女王メアリー
の帰国を迎える空気は歓迎にはほど遠いものであり、メアリーの帰国早々、
有名な狂信的な宗教改革者ジョン・ノックスが教会にやってきたメアリーに
旧教から新教への改宗を迫るというありさまでした。
しかし、メアリーの信仰はゆらがず、メアリーの美貌やフランス仕込みの優雅
なマナー、うら若い未亡人という立場などに対して国民の感情も同情的な
ものに変化していき、実際の統治は新教徒である庶子の義兄マレー伯が
進めますが、メアリーは権力の代表者としスコットランドを治めていくことにな
りました。
メアリー女王
メアリーの若さと美しさ、穏やかな人柄は人々の心をつかみ「女王の宗教は
歓迎しないが、女王は大歓迎」と受け入れられ、帰国後の2年間は無事す
ぎていきました。
女王メアリー
メアリーは今でいうベストドレッサーで、好みは一口で言えば贅沢でシンプル
なもの。素材はとびきり良いものを選びましたが、色と形はあくまでもシンプル
なものを好みました。特に色に関しては「白の女王」と呼ばれたほどに白を
愛し、次は黒、そして真紅という単純明快な好みでした。宝石も愛しました
が、ダイヤや金よりも真珠やルビーを特に好み、身に付ける物だけが目立っ
てしまうような装いはできるだけ避けようとしました。
エリザベス一世
装いの複雑さ豪華さ、色の派手さで相手を威圧しようとしたエリザベスとは
一味違ったセンスの持ち主でした。メアリーの肖像画があまり残っていないの
が残念です。メアリーは又、スポーツウーマンで鷹狩をはじめとする狩猟、ア
ーチェリー、クリケット、そしてゴルフとその頃行はれたスポーツ全般に親しみ
ました。運動神経と健康な身体に恵まれ、狩猟はフランス時代に義父の
アンリ2世に仕込まれたようでした。
メアリーがスコットランドに戻ってきた当初はエリザベスとの関係は、書簡の往
復が頻繁に行われお互いに親密さを競い合いました。しかしそれは表面上
の言葉のやり取りだけで、メアリーがイングランドの王位継承権を撤回しない
限り、エリザベスのメアリーに対する警戒心は解けず、又メアリーはエリザベス
がそのような警戒心を持っていることを理解しなかったのです。
エリザベス一世
エリザベスは個人的にもメアリーを意識してスコットランド大使に「メアリーと自
分とどちらが美しいか」「「二人のうちどちらが背が高いか」「どちらが演奏が上
手か」と問いかけるほど、強いライバル意識を持っていました。
この二人の才色兼備、才気煥発、勝気でプライドの塊のような大物女王
の存在は同時代の人々はもちろんのこと、後世の人々にも刺激を与え続け
たのです。しかし、メアリーの方にはそういう競い合う感情は薄かったようです。
メアリー
メアリーはフランスより帰国してから自分に従って渡ってきたフランス人や4人
のメアリーたちと「小さなフランス」をつくり上げていました。フランス風に装飾さ
れたその宮殿の一郭で、メアリーは心おきなくフランス語を話し、音楽を奏で、
詩を読み、仮面舞踏会に興じていました。そこはメアリーの唯一の避難場
所であり憂さの捨て所でした。
そのグループの一員の詩人のシャトラールという若者が女王に思慕を募らせ、
その寝所に忍び込み発見されるという事件が起きてしまいました。
シャトラールは逮捕され、即刻裁判にかけられ処刑されました。シャトラールは
この後、メアリーのために思はぬ死を遂げる男たちのさきがけになりました。
女王メアリー
その後しばらくは若い未亡人のスコットランド女王をめぐって、全ヨーロッパの
王家は激烈な争奪戦を展開しました。フランスのブルボン家やオーストリヤ
のハプスブルグ家は正式に縁談の代理人をたてて交渉してきました。
エリザベスは自分の寵臣を押し付けようとしましたが、メアリーはその話にの
りませんでした。
ところがメアリーは自分の意思で4才年下のダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
と結婚して周囲も世界も驚かせました。1565年のことです。
女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・スチュアート
ダーンリー卿はメアリーと同じスチュアート家の血筋をひき、家柄は申し分なく
美男でしたが性格は円満と言いがたく、見栄っ張りで慎重さにも欠けていま
した。そしてメアリーはカトリックといっても狂信的ではありませんでしたが、ダー
ンリーは熱心なカトリックでプロテスタントが勢力を延ばしていたスコットランド
では軋轢をを生むきっかけになりました。
ダーンリー卿
メアリーが恋して結婚したダーンリーは次第にその本性を現し始めました。
見栄っ張りだが極度に意思薄弱、短気で威張り散らし、権力には異様に
執着するが行政能力は皆無と言う状況に、1年もたたないうちに2人の関係
は冷え切ってしまいました。翌1566年3月、あせったダーンリーは嫉妬から女
王に反感を持つ貴族と共謀して、メアリーの秘書で音楽家のダヴィッド・リッ
チオを妊娠6ケ月のメアリーの面前で殺してしまいました。
ジェイムズ王子と女王メアリー
1566年11月に長男ジェームスを出産したメアリーは、寵臣で精力的な軍
人ボスウェル伯を集め、反抗的で傍若無人の振る舞いが激しくなった夫、
ダーンリーへの対策を練りました。
ボスウェル伯は教養人でしたが、大胆で、法律や道徳は軽視し、卑劣で
陰謀好きな貴族たちを軽蔑していました。女王はボスウェル伯を頼りにし、
重用するうちに信頼は激しい恋に変わっていきました。
しかしメアリーの恋は絶望的でした。メアリーには夫があり、ボスウェル伯には
妻がいました。そしてボスウェル伯はメアリーの王冠にしか魅力を感じていま
せんでした。
ボスウェル伯
1567年1月病気でグラスゴーに居た夫ダーンリーをメアリーは見舞い、夫を
エジンバラに連れ帰ってエジンバラ城外の屋敷に落ち着かせました。
翌日の夜中の2時、すさまじい爆発が起き屋敷は影も形もなく吹き飛ばさ
れその瓦礫の中にダーンリーと側近の者たちの死体が転がってました。
知らせを受けたメアリーはこの爆発がダーンリーというよりもむしろ自分を狙っ
たものだと思いました。しかしその後のメアリーの行動はただちに犯人を積極
的に探しだす捜査をするでもなし、夫の死を悲しんで見せるわけでもなく、
したことと言えば各国に事件の経過を知らせる手紙を書き、犯人を告発し
た者に2000ポンドの賞金を約束するお触れを出したくらいでした。
このときメアりーに必要だったのはただ一つ、犯人を追及し、法廷に引き渡
して自分の無実を公衆の前に証明してみせることでした。
国の内外を問わず、スコットランド女王への夫殺しの深い疑惑が生じたの
です。
女王メアリー
夫ダーンリーが殺されて3ケ月後、メアリーは犯人とみなされていたプロテス
タントのボスウェル伯と結婚し、国内外の非難が集中して大スキャンダルに
なりました。世間を敵にまわしてメアリーが結婚を急いだのはボスウェルとの
不倫の子を宿していたからだと言われています。やがて貴族たちが反乱を
起こし、旗色が悪いのを見てメアリーとボスウェルは城を逃げ出し、同年6月
15日メアリーは逮捕され、ボスウェルはメアリーを見捨てて逃亡してしまいま
した。ボスウエルはその後デンマークで逮捕され、10年後発狂死しました。
女王 メアリー
メアリーはロッホリーベン城に移され、強要されてやむなく廃位と息子ジェー
ムスへの王位継承に同意、署名し、1才の幼児がジェームス6世として即
位し、新教徒の義兄マレー伯が摂政となりました。しかし生後6日目から
女王であったメアリーから王者の意識と誇りは奪い取ることはできません。
その1年後メアリーは囚われの女王に恋した城主の息子の手引きで逃亡
し、6000人の兵士を集めて復位を計画しましたが敗れ、万策尽きて1568
年5月、エリザベスにすがり、イングランドに逃れました。
メアリーはまだ25才でしたが、このときが自分の人生の事実上の終わりであ
ることを知るよしもありませんでした。
エリザベス一世
長年ライバルの失墜を望み画策してきたイングランドのエリザベスも、この問
題では窮地に立たされました。もともとエリザベスとメアリーはイングランドの
王位をめぐって宿敵の立場にありましたが、2人にはまた従姉妹と言う血の
つながりもあり、メアリーをスコットランドに送り返すのは、死に追いやるような
もので非難の的となるのは免れなかったからです。
だからといってイングランド内にとどめれば、王位継承権問題やスコットランド
問題をめぐってトラブルの種になりかねませんでした。
エリザベスはもともとは寛容な人物で、感情に流されず理性的に物事を処
理しようとするタイプの女性でした。しかし自分の女王としての正統性に対
する疑いの念を持たれ、王位が脅かされることは、どうしても看過することは
できませんでした。
エリザベス一世
しかし一方、エリザベスはメアリーに救いの手をさしのべることは、自分の慈悲
と寛容の手本を示すまたとない機会と考え、心よくメアリーを自分のもとに迎
え、そして彼女の願いに耳を傾けようとする気持ちにも動きかけていたのです。
しかしエリザベスの優秀な宰相セシルの述べる、新教国の女王がメアリーの
復権のため旧教国の女王のために武器をとるわけには行かないし、またメア
リーをこのままイングランドに引き留めると、この国のカトリック教徒の危険な
温床になるだろうと言う意見に従ってどちらの方法も選ばないことにしました。
囚われの女王メアリー
メアリーはエリザベスによって幽閉されて18年間、北部や中部の城を、なか
ば囚人、なかば客人として転々としました。楽観的なメアリーはエリザベスの
口約束を信じて、はじめは自分の女王としての権利の回復に助力してくれ
るよう要請ました。
しかしエリザベスはメアリーの夫殺しの疑惑を盾に持ち出し、メアリーの身の証
をたてる約束を破り、裁判であいまいな形で決着がついてもメアリーを確固た
る理由もないまま監禁し続けました。
幼いジェームス6世の摂政となった義兄マレー伯は自分の手にした権力を保
持するため、妹メアリーの帰還を全力をあげて妨害し続けるところにもってきて、
イングランド国内に留め置くと反乱の火種になり、メアリーの希望するフランス
やスペインにやれば反イングランドの中心になりかねないというエリザベスとその
大臣たちの思惑が深まっていく中、メアリーの解放は時とともに遠のいていきま
した。
メアリーもようやく自分がわなに落ちたことを自覚し、絶望の中からエリザベス
への憎しみを募らせていくようになりました。
メアリーの幽閉された18年間は、自由と権力を奪われた情熱的で誇り高い
女性にとっては、狂おしく屈辱的な日々でした。25才から44才という人生の
盛りを来る日も来る日も、牢獄で不毛に過ごすうちにメアリーの身体も心も
次第に蝕まれていきました。
息子のジェームスを思はぬ日はありませんでしたが母親の記憶を持たぬスコ
ットランド国王ジェームス6世はプロタスタントの貴族たちに、母親にたいする
憎しみを注ぎこまれつつ成長していきました。
エリザベスにイングランドの王位継承権をちらつかされ、年金5000ポンド提供
の申し出を受けると、良心の痛みを感じることなく母親を見放しました。
女王メアリーと息子ジェームス
当時、ヨーロッパは宗教戦争が吹き荒れている頃でした。
「聖バルテルミーの虐殺」の名で知られる、新教徒の虐殺がフランスで起き
ており(これはかつてのメアリーの婚家先の姑、カトリーヌ・ド・メディチと先夫の
兄弟たちが仕組んだものでした)、オランダでもドイツでもスイスでも、カトリック
教徒とプロテスタント教徒の対立が激化していました。
1584年にはエリザベスと同じプロテスタントのオランダのオレンジ公がカトリック
教徒に暗殺される事件が起こりました。法王庁やスペイン宮廷ではエリザベ
ス暗殺の動きがあり、又スペインではイングランド侵攻の「無敵艦隊」の準備
が進められていました。
そういう情勢の中でイングランド議会では「女王に対する陰謀に参加した者
を処刑にする」という法律ができたのです。
女王 メアリー
メアリーはなんとしても自由と権力を取り戻そうと計画し、計画しては失敗す
ることの繰り返しの中で、エリザベスに対する憎悪と復讐の念がメアリーの生き
る根源となりました。
ここでは紹介できませんが、このころにメアリーがエリザベスに宛てた多くの手紙
は、メアリーの悲しみ、絶望、憎しみが溢れるその内容の凄惨さに読む人の
気持ちを暗澹とさせるものがあります。
スコットランド女王がイングランドの「名誉ある囚人」になってからの長い歳月、
メアリーにとっての傷心の日々はエリザベスとその大臣にとっても、心の休まる
月日ではありませんでした。この女王を抱えているうちは、いつカトリック国の
軍隊が乗り込んでこないとも限らず、起爆剤を抱えたような状況にありました。
「この件にはけりをつけねばならない」
エリザベスの警察長官はメアリーのまわりで計画される陰謀にメアリーを巻き込
んで、エリザベス暗殺未遂と言う致命的な罪に追い込むことを決意したのです。
警察長官の手のこんだ謀略は成功してメアリーは証拠をおさえられ、1586年
フォザリンゲイ城に移されて、弁護士や証人もなく自己弁護を用意する秘書
もなしに裁判を受けることになりました。
メアリーはたった一人で36人もの貴族の集中攻撃に対抗して弁明、抗議をし
ましたが、4時間に渡る審議の末、ついに力つきてしまいました。
10月25日委員会は「イングランド女王暗殺計画」した罪でメアリーに死刑を
宣告しました。
エリザベスは議会からの再三の死刑執行書への署名の要請に対して署名を
渋り続けましたが、翌1587年ついに署名をしました。
処刑は2月8日朝8時と決まり、メアリーは遺言をしたためた後、用意した衣装
に着替えました。足まで垂れたレースの白いヴェールに白い被り物。黒いビロ
ードに袖の切り口から緋色の裏がのぞいた二重になったサテンのドレス、真紅
のペチコートといういでたちでした。
処刑場へ向かう女王メアリー
処刑場に立つ女王メアリー
女王メアリーの処刑
処刑はフォザリンゲイ城の大広間で執行されました。
シュテファン・ツヴァイクの伝記「メアリー・スチュアート」で描かれるメアリーの処刑
の様子は陰惨で、とてもここに再現する気になれませんが、断頭台の露と消え
た多くの高貴な女性たちと同じく、メアリーもスコットランド女王として誇り高くか
まえて死んでいきました。
エリザベスがライバルに与えた斧の一撃は、ライバルの青春の過ちを消し去り
栄光を与え、反対にエリザベスの輝かしい治世に拭うことのできない大きな染
みをつけることになりました。
王位継承権はあってもメアリーはエリザベスに退位を迫ったことはありませんで
した。しかしメアリーの意思とはかかわりなく、エリザベスの王位継承を不服と
する野心家の貴族たちに担ぎあげられる運命にありました。メアリーが生きて
いる間、エリザベスは枕を高くして眠れないと処刑に踏み切りましたが、18年
間、迷ったあげくの決断でした。
又メアリーが処刑に追い込まれた背景には16世紀後半の新旧両教徒の対
立、イングランドにのしかかってきたスペインの影といった時代の状況が横たわ
っていました。
メアリーは死の数年前に「わが終わりにわが始まりあり」との謎の言葉を、手の
こんだ刺繍細工の中に縫いこんでいました。この予言はやがて実現されるこ
とになりました。
女王メアリー最後の手紙の一部
処刑のその日にエリザベスに宛てたメアリー最後の手紙(全4枚)です。
手紙上部の左側にメアリーの署名と1587年2月8日の日付があります。
エリザベス一世
エリザベスはメアリー処刑の翌年イングランドに来襲したスペインの「無敵艦
隊」を打ち破り、それまでフランスとスペインの2大強国にはさまれた島国の小
国イングランドをヨーロッパの強国に押し上げて行きました。エリザベスの44年
に渡る治世はエリザベス朝時代という政治、経済、文化あらゆる面でイギリス
史の画期をなす時代を生みだしました。エリザベスが傑出した政治家になり
えたのは、幼児期から即位にいたるまでのエリザベスのへた苦難の人生経験
や、きわめて高度な教育によって育まれたエリザベスの知性があったと言われ
ています。
一方長い幽閉に耐え、断頭台で誇り高い生涯を閉じたメアリーを支えたの
は輝かしい幸せな子ども時代の記憶であったのではと言われています。
女王メアリー
1603年エリザベスの死とともにエリザベスの遺言によってメアリーの息子ジェー
ムス6世がジェームス1世として王位を継ぎ、イングランドとスコットランドを一
つに結び、ブリテン島に住む人々の悲願であった連合王国が出現しました。
メアリー・スチュアートの血筋は現代のイギリス王家に引き継がれ、あの予言
は実現されたのです。
連合王国は子を遺さずして世を去ったエリザベス1世の国民への贈り物でし
た。いがみあってきた二つの国を結び、平和と繁栄を確保したと言う点でエリ
ザベス1世は偉大な功績を遺したと言えるでしょう。
現在ロンドンのウエストミンスター寺院の地下墓地にメアリー・スチュアートとエ
リザベス一世は眠っています。
参考文献
「メアリー・スチュアート」
シュテファン・ツヴァイク みすず書房
「女王メアリー・スチュアート」 桐生操 新書館
「華麗なる二人の女王の闘い」小西章子 鎌倉書房
「エリザベス一世」 青木道彦 講談社現代新書
「イギリス・ルネサンスの女たち」 石井美樹子 中公新書
以上から引用させていただきました。
今回は弟の協力で写真を揃えることができました。長いレポートを最後まで
読んでくださいまして有難うございました。
川島道子
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