3/28 2006掲載
シャネル その生き方 Part2
シャネルほど強烈な自立心を持ち、美しく多くの男性を惹きつけ
ファッションに多大な影響を与ええたデザイナーはいませんでした。
シャネルブランドは今も多くの女性の関心を集めていますが、
彼女の最大の遺産は服ではなく、強く前向きに生きる姿勢であり、
これこそ現代の女性が求めているもので、シャネルのスタイルを
ほぼ1世紀近くも生き永らえさせてきた要素でした。
今回はそのシャネルに関わり、彼女の人生を彩った人物に焦点をあてて、
紹介していきたいと思います。
ミシア・セール
シャネルが心を許した唯一の女友達、ミシア・セールは
音楽家筋のポーランド系の名門に生まれ、ミシア自身も
才能あるピアニストでした。子どもの頃、リストの膝の上に
乗ってベートーベンを弾き、「ああ、自分もこのように
弾けたら」とリストを嘆息させたと言うエピソードが伝わって
います。ミシアは正式にフォーレに弟子入りして、音楽に対する
深い感受性を学びました。フォーレも活発で才能豊かな女生徒に
強い愛着を抱いていたようでした。
マラルメが贈った扇子
フランスの象徴派の代表的詩人マラルメは毎年、年の初めに
ミシアに自作の詩を書き付けた日本の扇子を贈っていました。
それは金地に草花模様を散らした扇面に繊細な筆跡でミシアの
嵐のように激越で力強いピアノの演奏ぶりを詩で表現しました。
ミシアもマラルメの詩に共感して演奏していたようです。余談になりますが
マラルメの詩に画家のマネが挿絵とカットを描いた「半獣神の午後」に
インスピレーションを受けて後にドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」
を作曲しています。
ルノアール
ミシアが実業界の百万長者と再婚したころ、ルノアールが彼女の
魅力の虜なって、ミシアをモデルに次々と描きその肖像画は7点
にもなり、恋文まで送ったということでした。
ロートレック
ボナール
ミシアの魅力に惹かれてその面影をカンヴァスに残した画家には
ロートレック、ボナール、ヴュイエール、マリー・ローランサン
などがいてその結果、今日世界中の美術館に彼らが描いたミシアの絵が
飾られています。
ジャン・コクトー
ミシアにはマラルメの他に文学の面でも数多くの賛美者がいて、
「肉体の悪魔」のラディゲイ、「失はれし時を求めて」のプルースト、
メーテルリンクやミシアが世に送り出したジャン・コクトーがいました。
多くの芸術家を魅了したミシアは芸術の愛好家から芸術保護者の役割を
するようになり、苦境にあったラヴェルに手をさしのべるなどその活動は
美術、音楽、演劇と広がっていきベルエポックの華とうたわれました。
シャネルの才能を見出して世に送り出したのもミシアで、出会った二人は
意気投合し、その友情はミシアの死まで続きました。1908年パリ、オペラ座で
公演されたディアギレフの制作したムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドノフ」
を見たミシアが、夜食の席でディアギレフと語り合ったことから2人の関係が
はじまりました。このディアギレフともう一人の天才ニジンスキー
のことこそ、私がここで特別にスポットを当てたい人物です。
ディアギレフ
第1次世界大戦前夜、パリの芸術界に大きな影響を与えた
ロシアバレエを率いたディアギレフは、ロシア生まれの
幅広い教養の上に驚くほど豊かな美的感覚、寛容と残酷、
桁外れの熱中、尊大さと謙虚さを併せ持つ人物で、それは
ミシアと共通する資質でもあり、2人の友情を可能にした
のはスラブ民族の血と言えました。ディアギレフは有能な
指導者であり卓越した組織者、そして事業家でもありました。
2人は芸術のパトロンとして同志であり、その結びつきから
ロシア・バレエが生まれていき、ディアギレフとの出会いは
ミシアの世界を大きく広げました。
ディアギレフとストラヴィンスキー(右)
ロシア・バレエを中心として、ピカソ、マティス、マリー・ローランサン
ブラック、ユトリロ、ミロ、ルオー、ストラヴィンスキー、ドビュッシー
ラヴェル、リヒャルト・シュトラウス、エリック・サティ、ファリヤ、
プロコーフィエフ、プーランク、ニジンスキー、アンナ・パブロア、シャネル等
画家、詩人、音楽家、舞踊家、演劇家、その他さまざまの分野の才能が結集し、
ディアギレフのロシア・バレエ団はバレエ史上最強のバレエ団になりました。
シャトレ座公演のポスター
1909年5月パリのシャトレ座での歴史的公演の成功は、今日のバレエが
芸術の1ジャンルとして繁栄している大きな源になりました。
(日本以外ではポロヴェッツ人の踊り)でした。ヨーロッパでは19世紀
半ばを境にしてバレエ芸術は急速に衰退していき20世紀に入る頃には
すっかり大衆芸能化してしまっていました。ところがロシアではバレエが
高い芸術的水準を保っていました。プティパによってロシアで「クラシック
バレエ」が生まれ、チャイコフスキーの三大バレエ「白鳥の湖」「眠れる
森の美女」「くるみ割り人形」をはじめ今もなお上演される名作が生まれ
ました。
フオーキンのポロヴェッツ人
「韃靼人の踊り」は女性中心のしなやかで弱弱しい踊りに見慣れて
いた観客は、韃靼人の兵士に扮する男性舞踊手たちの地響きを
たてての勇壮な踊りっぷりに圧倒されて、それまでのバレエ観を
吹き飛ばしてしまいました。名作「レ・シルフィード」も上演され
ましたが、パリの観客にもっとも強烈な印象を与えたのはこの
「韃靼人の踊り」でした。シャトレ座公演の成功によって
ディアギレフはバレエ団の結成を考えるようになり、第2回の公演後
正式に発足し、20世紀のバレエに大きな影響を与えたロシア・バレエ団の
活動が始まりました。
「薔薇の精」ニジンスキーとカルサヴィーナ
ロシア・バレエ団の活動の中心を担ったのはニジンスキーでした。
パリのシャトレ座の公演でニジンスキーが彗星のように現われて、
観客が興奮のるつぼに投げ込まれて以来、ニジンスキーは「バレエの神」
であり、その名前はバレエの代名詞にさえなりました。
ニジンスキーの踊りの特徴はその高い跳躍にあり、「ニジンスキーは
天から舞おりる」と評され、タマラ・カルサヴィーナとの「薔薇の精」
は「ペトルーシュカ」とならんでニジンスキーのダンサーとしての
頂点をなす作品でしたが、ラストの跳躍ではニジンスキーは
「舞台の端から端まで飛んで窓の外に姿を消した」と言われました。
「シェラザード」のニジンスキー
1910年の第2回公演での「シェラザード」は、千一夜物語の話を
リームスキイ・コルサコフが作曲しエキゾティシズム、エロティシズム、
ヴァイオレンスを前面に出した作品で、ニジンスキーの踊りは観客の
心をつかみ、大好評でロシア・バレエ団の最大のヒットとなり公演も
成功しました。
「ペトルーシュカ」
「ペトルーシュカ」は魔法使いによって生命を与えられた人形の物語です。
はげしい生命を内に秘めながら、あくまでも人形という枠のなかでしか
動くことができず、人間のように踊ることが出来ないペトールシュカは
貴族たちの意のままにされ、踊り子を愛しても裏切られるのです。
人形であり人間であるという「ペトルーシュカ」の悲劇、人形とは
人間の自由を枠づけるもの、人間の自由と自然の発露をおさえる
すべてのものをあらわし、ニジンスキーによって完璧な作品になりました。
子どものような魂を失わず舞台が全てであったニジンスキーの後の悲劇を
象徴するような舞台でした。
「牧神の午後」
ニジンスキーの「牧神の午後」は前に述べましたようにマラルメの
詩にドビュッシーが作曲した「牧神の午後への前奏曲」に振り付け
たものでした。ニジンスキーは「牧神の午後、それは私自身だ」と語った
ように彼の全存在をかけて創られた作品はバレエ史上画期的な作品で、
ニジンスキーの振り付けに対する思想に革命的なものがあることを
見抜いたディアギレフの慧眼によって生み出された舞台でした。
「牧神の午後」
ニジンスキーの振り付けはクラシック・バレエの基本を無視
した全く新しい革命的なものでした。彼は古典バレエの形式化
や約束事化、符号化したジェスチャーを排することで、おどりを
真の自由、限りない可能性を追求するものにしていきました。
それによって内面の世界、美の世界を切り開いて行き、それは
現代舞踊に道を開きました。
「牧神の午後」
「牧神の午後」は数々の新しいもの、革命的なものを秘めつつ
1912年5月シャトレ座で初演されました。バレエ史上「牧神の午後」
の上演ほど劇的で激しい反響をまきおこしたものはありませんでした。
牧神がニンフの残したヴェールの上に横たわって、あからさまな性の
表現(あきらかに男性のマスターぺーションを想起させる)をした
最後のシーンには、幕が下りるか下りないうちに観客の反応は二つに
分かれました。一方は口笛を吹きこの作品を罵倒し、もう一方は絶賛し
拍手を送りました。翌朝の「マタン紙」の批判にたいして、彫刻家の
ロダンの反論がフィガロ紙に掲載されて、巨匠ロダンの支持と多くの
専門家が絶賛し、芸術家が賛同を示したことで「牧神の午後」は
上演されていきました。
「春の祭典」
リームスキイ・コルサコフの弟子のストラヴィンスキーは、ディアギレフの
大きな発見でした。ストラヴィンスキーの名声を不朽のものにした三つの
バレエ音楽、「火の鳥」「「ペトルーシュカ」「春の祭典」のうち、
ニジンスキーの振付けた「春の祭典」の初演は、その音楽同様、歴史的
大反響を引き起こしました。19世紀ののどかな音楽を跡形も無く粉砕
するような曲の難解さとそれに振付けたニジンスキーの踊りに、劇場は
収拾のつかない状況になりました。ラヴェルはこの曲を即座に理解した
作曲家でしたが、ミシアも何の抵抗もなく受け入れ、この曲をめぐって
対立したストラヴィンスキーとディアギレフの間にたって仲介の労を
とりました。ニジンスキーは短時間で創られた不備を認めていました。
「オリエンタル」
ニジンスキーの芸術は、大衆には受け入れられませんでしたが、
バレエは彼の作品によって、現代的な芸術、身体の芸術としての
道を歩み始めました。そしてもっとも重要な作品は「春の祭典」で
ディアギレフはロシア・バレエ団の生み出した作品の中で
「春の祭典」より重要な作品はないと断言しました。この
「春の祭典」は1959年にモーリス・ベジャールによって全く
新しい振り付けで公演され好評を博しました。ニジンスキーは
1919年発病(統合失調症)して入院し、1950年亡くなりました。
1909年シャトレ座でデビューして天才的なダンサーとしても、
振り付け家としても輝いたのは1913年の「春の祭典」までで
残り30年間は表に出てこない世界に生き続けたのでしたした。
前列左シャネル、右ミシア、後列男性ディアギレフ
ディアギレフは公演するたびに赤字を出し、それをミシアや
ミシアから引き継いだシャネルが資金を出して支えました。
ロシア・バレエ団の活動はミシアやシャネルのような女性が
居たからこそバレエ史に大きな足跡を残すことが出来たのでは
ないでしょうか。そのロシア・バレエ団の活動に関わった芸術家
たちは20世紀の文化、芸術に大きな影響をあたえました。
その中で今から100年前、短い期間でしたがその天才的な踊りと
振り付けで20世紀のバレエに大きな功績を残したニジンスキーは
伝説のダンサーとして今も語り継がれています。
あとがき
一瞬の輝きの後暗く長い闇の世界に沈んだニジンスキーには
深い哀惜の念を持ち続けていましたが、ニジンスキーのことを
少しでも知っていただけたらとこのレポートをまとめました。
参考文献
ニジンスキー 石福恒雄 紀伊国屋書店
踊る世紀 鈴木晶 新書館
ミシア アーサー・ゴールド 草思社
ロバート・フィッツティル
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