7/27 2006掲載

よもやま話 Part2
 
慶州への旅  その一・・・・・k.Mitiko
 
 
2001年5月、妹夫婦と新羅の古都慶州への旅は博多港から
ビートル(高速船)で出かけました。3時間足らずで釜山に着き、
日本語通訳の女性ガイドの案内でタクシーで出発。

左から2番目の男性は運転手。この顔ぶれで2泊3日の
旅を楽しみました。釜山から慶州への高速道路の途中、
渋滞で停車中の私たちの車に物売り(菓子類)の男性が
車の間を縫って近ずいて来たのには、場所が場所だけに
驚いてしまいました。

慶州は仏教文化が花開いた新羅の古都だけに、慶州全域が
屋根のない博物館と言われるほど、数多くの文化遺産が散在
しています。三国時代(紀元前1世紀から紀元後7世紀、高句麗
百済、新羅の三国併立)から統一新羅の終焉までの千年、
それ以後現在までの千年、一地域で二千年の文物を守りとおしてきた
慶州は、1979年ユネスコから世界十大遺跡地の一つと指定されました。
特に統一新羅の時代は文化・芸術の興隆期にあり、仏教文化はこの時期
黄金期を迎えました。

私たちが最初に訪れたのは、新羅王朝の王族の大規模な古墳群で、
広さ12万坪の敷地に23基の古墳が集まっている大陵苑。地下の
古墳まで合わせるとその数は200基以上とされています。

大陵苑の入り口。

きれいに刈り揃えた芝生が覆う丸い円形の古墳群、見ているだけで
ほっとする空間でした。気持ちの良い眺めです。

天馬塚古墳の全景。大陵苑の中でもっとも有名な古墳です。
天馬塚という名前はこの古墳から天馬を描いた馬の泥よけが
出土したことに由来します。またこの古墳から金冠や腰帯など
1万1500点余が発掘されました。

唯一内部が公開されていますので、ガイドさんと今から中に入ります。

古墳の内部には積石木郭墳が、出土当時の形態で保存されていました。
被葬者を入れた木棺を真ん中に置き、それを木郭で囲み、更に其の周囲に
人の頭ほどの大きさの石をうず高く積み上げて(天馬塚の場合は4,5mほども
あり)更にその上に粘土を貼り付け土砂で覆っています。新羅の古墳が殆ど
盗掘されていない理由はこの古墳の構造にあるといえます。

天馬塚の名の由来になった天馬。この天馬の絵は、韓国最古の
絵画とされております。

スキタイ(中央アジアの遊牧騎馬民族)の影響を受けている
のではと言われている腰帯。

金製冠帽


天馬塚をはじめ皇南大塚、金冠塚、金鈴塚、瑞凰塚など新羅の
5世紀代の墓から金銀製の装身具が多数出土しており、目を
見張る絢爛豪華なものが多いようです。新羅の金銀製品は
5世紀半ばから出土していて、その黄金文化は6世紀には頂点を
迎えたようです。古墳内にはこれらのレプリカが展示されていました。

当時の馬具と衣装の花郎像
6世紀の後半新羅では、貴族の青年たちが集団生活をしながら、
心身をきたえ、社会のおきてを学ぶ花郎(ファラン)という
若者組織ができました。上流階級の男子の中で、人格容姿の
すぐれた15,6才の者が花郎に選ばれ、この花郎のもとに
花郎徒(ファランド)とよばれる1000人ほどの若者が
集まっていました。平時には歌や音楽を楽しみ、風流の道も
きわめましたが、ひとたび戦時となれば、戦いの先頭にたちました。
その中から新羅統一の名将金庚信(キムユシン)が登場しました。

金庚信将軍は高句麗、百済の三国対立の動乱期にあって、後の
太宗武烈王を支え、その子文武王とともに朝鮮半島に初めて
統一国家を実現しました。統一新羅は高句麗、百済、新羅の
三国の文化を融合して、相互文化を受け入れて民族文化を
形成するようになり、仏教文化が花開いていきました。

新羅統一を成し遂げた文武王の「死して龍神となりて故国を守らん」
との遺言に従って慶州沖に海中陵墓が造られました。

花郎教育院
花郎徒の理念の儒教、仏教を根本とした忠誠、孝道、信義
勇気、慈悲の精神を引き継いで、国の人材を養成する目的で
花郎教育院が設立されました。また東南山の麓にある統一殿は
新羅統一にあやかり南北統一を願う人々の思いがこめられた
場所になっています。

Part2へ続く

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