12/18 2006掲載

よもやま話 Part4
 
朝鮮通信使  その四
 
 
朝鮮通信使を支えた人々
 
 
朝鮮通信使は、毎回1冊ないし2〜3冊の紀行文を残しており、
それぞれ日本の風物や世相、文物や人情を知る上で貴重な文献と
なりました。その記録によって、朝鮮通信使の全体像を、後世の
私たちも知ることができるようになったのです。
 
 
朝鮮通信使絵図
豊臣秀吉の朝鮮出兵に不信をいだく、朝鮮王朝との戦後の交渉は
大変な苦難の道でした。多くの困難を乗り越えて、朝鮮通信使が
12回208年間続いたのは、誠信交隣の思想があったからでした。
朝鮮通信使に貢献した人として対馬藩主宗義智(よしとし)、
対馬藩専従の外交僧(*)景徹玄蘇(けいてつげんそ)、そして
対馬藩の儒学者雨森芳州(あめのもりほうしゅう)の3人の名が
上げられます。
 
 
対馬藩主宗義智(そうよしとし)
 
 
対馬藩主宗義智が19歳で家督を継いだときは、豊臣秀吉が朝鮮出兵を
計画しているときで、室町時代から断続的に続いていた朝鮮王朝との、
交易無くしては成り立たない対馬藩にとっては一大事でした。
秀吉の大陸進出の野望のため朝鮮王朝への理不尽な要求を課せられて、
対馬藩では義智をはじめ、義父の小西行長や外交僧景徹玄蘇らの偽造国書で
急場をしのいできましたが、業を煮やした秀吉は小西行長を先陣に義智にも
出陣を命じました。秀吉は直前に小西行長の娘マリア(クリスチャン)を
義智に娶わせています。
 
 
宗家菩提寺万松院
1592年から6年にわたって続いた文禄・慶長の役は、秀吉の死によって
朝鮮全土に大きな被害の爪あとを残して終わります。開戦直前まで小西行長と
義智は、開戦を避けるために必死で和平交渉に奔走しました。戦いが終わる
と義智は、ただちに対馬藩の生存をかけて、そして家康の命を受けて朝鮮との
国交回復に全力をあげましたが、朝鮮国全土を荒廃させた日本に対して
朝鮮王朝側の不信感は根深いものがありました。
 
 
宗義智像
日本側の度重なる国交回復の使者派遣と、拉致した人々の送還などの努力に
対して、朝鮮王朝側から修交のための敵情視察の使者が派遣され、ようやく
交流の糸口が出来ました。両国の間にあって宗氏の払った努力は並大抵の
ものではなく、時としてかなりな無理を強いられることも少なくありません
でした。その最大のものが国書の偽造と改ざんの積み重ねで、これは後日
柳川事件と言われるお家騒動にまで発展しました。
 
 
朝鮮通信使行列図部分
宗義智は豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な
時代に生きた藩主でした。関が原の戦いでは義父の小西行長とともに西軍に味方
しますが、敗戦後行長は処刑、義智の妻であったマリアは離縁され、長崎で
一生を終えたといわれています。義智は家康によってお咎めなしとされ、
朝鮮王朝と徳川幕府のためにその後も奔走しました。秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、
戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、その功績を認められて、
新たに加増された肥前の田代(佐賀の鳥栖、基山あたり)を合わせた対馬府中藩
(略して対馬藩と言っていたようです)の、初代藩主として波乱に満ちた生涯を
終えました。
 
 
外交僧景徹玄蘇(けいてつげんそ)
 
 
宗義智を陰になり日向になって日朝国交回復に大きな力を発揮した「景徹玄蘇
(けいてつげんそ)」は、若くして京都五山(*)に学び、博多の聖福寺の住職から
対馬藩の招きにより対馬に渡りました。漢詩文と外交術に優れた景徹玄蘇は、
無謀な秀吉の朝鮮出兵を食い止めるために、藩主を助けて偽造文書を持って朝鮮、
明にまで渡り、開戦を阻止するため奔走しました。交渉が不調に終わったあとも、
再度朝鮮にわたり秀吉の出兵が迫っていることを伝えました。
 
 
朝鮮人物図部分
秀吉の死で戦いが終わるとただちに和平の道を探り、徳川政権になってからは
徳川将軍の使節として釜山にわたり、「慶長条約(平和通商条約)」を成立
させるなど、朝鮮外交の任に当たりました。その功績に対して家康より紫衣(*)
を授かりました。景徹玄蘇は平時のときも戦乱のときも第一線で活躍し、何度も
何度も朝鮮に渡り国交回復の大任を果たして、以後200年にわたる日朝修交の
証としての朝鮮通信使の道を拓きました。
 
 
柳川事件(やながわじけん)
 
 
宗義智は秀吉出兵前は戦争を回避すべく、また出兵後は1日も早く講和を
成立させるよう奔走し、戦いが終わると日朝関係の修復のために、国書の
偽造改ざんも厭いませんでした。それを協力して進めたのが外交僧景徹玄蘇と
宗家の重臣柳川調信(やながわしげのぶ)でした。日朝国交回復の過程で力を
つけた柳川家では、孫の調興(しげおき)は、主家から独立して旗本への
昇格を狙っており、藩主宗義成(そうよしなり、義智の息子)と対立していました。
 
 
朝鮮人物図部分
その調興が宗家の追放をもくろんで国書偽造について幕府に訴えたため、
国書偽造問題は対馬藩のお家騒動から徳川幕府を揺るがす外交事件に発展して
いきました。調興が強気に出たのは、時の老中の最高権力者土井利勝や林羅山
などの多数の後ろ盾があったからといわれています。義成には伊達政宗をはじめ
徳川御三家の一人、紀伊大納言頼宣など多くの大名たちが、わが身のように
心配していました。
 
 
朝鮮人物図部分
諸大名の並ぶ江戸城大広間で、家光じきじきの決裁がくだされ、宗義成は無罪、
柳川調興は津軽に流罪となりました。柳川氏に有利な条件がありながら、宗氏に
勝てなかったのは宗氏の存在抜きにしては日朝関係が成立しないと言う事情が
あったからだといわれています。これより以後は、正式に「朝鮮通信使」と
名乗るようになりました。
 
 
儒学者雨森芳州(あめのもりほうしゅう)
 
 
1990年韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領が来日した際の国会演説で、
江戸時代の儒学者雨森芳州(あめのもりほうしゅう)が話題に上り、芳州の
外交思想や姿勢に注目が集まることになりました。雨森芳州は医師の子と
して生まれ、当時傑出した儒学者木下順庵の門下生となり儒学を学びました。
 
 
雨森芳州
やがて対馬藩に招かれ外交を担当しましたが、相手国の心を知らなければ
血の通った外交は出来ないとの信念から、語学の勉強だけでなく朝鮮の歴史や
地理、風俗、人情、習慣までも詳細に研究しました。芳州は朝鮮語のほか
中国語にも通じていました。芳州の外交の基本方針、誠信交隣について
「誠心とは、互いに欺かず争わず、信実をもって交わることである」を
もとに対朝鮮との交渉をすすめていきました。
 
 
第8回朝鮮通信使 正使 趙泰億像(狩野常信)
筆談が主な交渉手段だった時代に音(会話)を学ぶ新進性と柔軟性を持つ一方、
外交政策に関して同門である新井白石と激しい論争を繰り広げるなど、剛毅で
実直な面も持ち合わせていました。250年前の世にあって、誠信交隣の
方針を先駆けて実践した芳州の業績が、現代において再評価されています。
 
 

日本興図(伊斗緒が朝鮮通信使の情報を基に描いた日本地図)
雨森芳州が身を持って示した「誠信外交」はその後も受け継がれましたが、
幕府の財政難により、11代将軍徳川家斉の就任を祝う通信使は、1811年に
なって対馬どまりの形でようやく実現しました。朝鮮との交易が死活問題である
対馬藩の持つ宿命と、成立したばかりの徳川幕府の安定と発展のために、そして
朝鮮王朝の対外事情によって始まった朝鮮通信使はここに終焉しました。ともすれば
近代以降の不幸な歴史に目が行きがちですが、それ以前にはこんなにも豊かな
交流があったことを私たちも知ることが大事ではないかと今実感しております。
 
 
馬上揮毫図(英一蝶)
「冬のソナタ」から始まった私の韓国への関心は朝鮮通信使にいきつき、
その旅を辿る過程で朝鮮半島が大陸に繋がる地理的条件から、千数百年間に
930回もの大小の戦争を、体験していることを知り衝撃をうけました。
日本は島国であるため国土が戦場になったのは、元寇の役と太平洋戦争の時
だけでした。韓国(朝鮮)の英雄のほとんどが、外敵から国を守った人々で
あることも驚きでした。文化や伝統が寸断される宿命を背負いながら、苦難を
乗り越えて歴史をつくってきた人々に、私は心から尊敬の念を抱くようになりました。
 
長い間私のつたないレポートを読んでくださって有難うございました。
編集長さん、小春ママさんお二方の励ましでここまでこれました。
本当に有難うございました。語りたいことはまだまだ数多くありますが
又機会があれば紹介したいと思います。
 
 
 * 外交僧   朝鮮王朝は国の基本政治に需教を採用していましたので
        交渉にあたっては儒学を学び、漢詩文の応酬が出来る人物が
        求められ、それは当時の日本では禅僧でした。こうして日本の
        禅僧たちは外交の仕事をまかされました。
 
  
 *京都五山   もともとは、寺を格ずけして管理し、官が任命権をもって
        順次格式の高い寺に昇任させる制度。京都では五山の上に
        南禅寺、五山の一に天竜寺、五山の二に相国寺、五山の三に
        建仁寺、五山の四に東福寺、五山の五の万寿寺。
 
 
 *紫位     紫位とは、紫の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず
        高徳の僧・尼が朝廷から賜った。
 
 
参考資料    朝鮮通信使絵図集成    辛基秀  講談社
        書き替えられた国書    田代和生 中公新書
        日本・コリア交流の歴史       高麗博物館
        海峡の蛍火        杉洋子  集英社
参考サイト   高麗博物館 http://www.40net.jp/~kourai/
        雨森芳州  http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/hosyu-1.htm
        小西マリア http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/jyouka-5.htm
*半年にわたって貴重な資料を貸し出してくださった早良図書館に心から感謝しております。            
 

その一はenter

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