6/12 2008掲載

私の沖縄の旅    Part1     
 
 by 川島道子

どこまでも広がる青い空と海、豊かな自然が息づく沖縄は、太平洋戦争で唯一
地上戦が行われ、戦後、基地の街として存在した場所として知られています。
一方沖縄の置かれた地理的条件から歴史や文化面などでは独自の道を歩み
その存在が現在新たな脚光をあびつつある場所でもあります。このたび私の孫が
沖縄に進学しましたことから、知っているようで知らない沖縄を訪ねる私の旅が
はじまりました。
 
 
東西1000km南北400kmに広がる沖縄のエリアは、九州、四国、本州を
合わせた広さの半分にもなり、県庁所在地である那覇市の1000km圏内
には、台北、福岡、上海、1500km圏内には大阪、ソウル、マニラ、香港
などがあります。そのことは沖縄は中国など東アジア、東南アジア、日本との
接点ともいえる位置にあると言えます。
 
 
 
 
 
沖縄という名前は明治政府によってそれ以前の琉球に代わってつけられたもので、
中国では長い間沖縄を「大琉球」台湾を「小琉球」と呼んでいました。
真珠の首飾りのように東シナ海の周辺にちらばった琉球列島は、気候的には
亜熱帯から熱帯に分布し、本土と東南アジアのほぼ中間に位置するという
優れた立地条件から、かっての琉球王国時代、日本、中国、東南アジアの要
として、交易によって大いに栄えた歴史がありました。ある時期独立した
王国でもあったため沖縄は日本の文化圏にぞくしながらも、その歴史や
文化に独特なものがありました。
 
 
ヤコウガイ製貝匙(祭器ー平安時代)
 
広大な海域に分布する沖縄の島々は、沖縄本島を含む北部は九州本土から南下する
縄文文化の影響を受け、宮古、八重山諸島の先島(さきしま)グループは中国南部
〜東南アジアにかけての南アジア系(フィリッピンやインドネシア)の南方文化の
影響を受けていました。沖縄の歴史は日本本土の歴史区分とはちがって、日本の
古墳時代から平安時代には、奄美、沖縄諸島は狩猟採集社会が続いていました。
 
 
 
ゴホウラ貝でできた腕輪
 
沖縄の島々をとりまくサンゴ礁に棲息する貝類、ゴホウラやイモガイ、ヤコウ貝は
弥生時代の大和では祭祀に、中国の唐時代では螺鈿細工の材料として珍重されました。
沖縄の貝をかたどった石製品は、古代大和の王権のシンボルとして、巨大古墳から
出土しています。沖縄近海を流れる黒潮にのり、島々をたどる貝の道は古代の大和や
中国、そしてはるか北海道や朝鮮半島北部まで広がり、貝交易が盛んに行われて
いました。貝と交換されたのは鉄製品や青銅製品、土器や布、穀物類でした。貝交易は
紀元前9世紀から紀元後19世紀まで、ほとんど途切れることなく続きました。
 
 
たいまい螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこー正倉院)
 
唐の都長安で作られた螺鈿製品は、唐の皇帝から各地の国王に下賜され、その一端を
遣唐使が持ち帰り、天皇に献上した豪華な螺鈿製品を正倉院で見ることができます。
ふんだんに使用されたヤコウ貝に、長安で消費された量がかなりのものであったと
想像され、その多くは沖縄から運ばれたものでした。沖縄の島々の歴史は貝交易に
よって特徴づけられ、沖縄は貝交易を通して東アジア世界とつながっていきました。
 
 
 
勝連城(かつれんぐすくー世界遺産)
 
日本本土の縄文文化、弥生文化の影響を受けながらも沖縄独自の貝塚文化と呼ばれる
漁撈共同体時代が長く続いたあと、海の恵みを中心とした生活から、農耕を中心とした
社会となりました。農耕社会が発展するにつれて13世紀になりますと豪族の首長、按司
(あじ)が地域をまとめるようになり、14世紀中ごろには、富と権力を手にした有力な
按司が武力を背景に按司同士の抗争と結合の結果、北山、中山、南山の小国家にまとまり
三山時代になります。このころをグスク時代といいます。グスクは聖域を持った原始
共同体の集落として発生し、しだいに城砦的グスクに発展していきました。
 
 
座喜味城(ざきみぐすくー世界遺産)
 
日本本土では平安時代末期のころで、このころから鉄製の農具の本格的使用が始まり、
水稲や麦、栗を中心とした農業が盛んになってきました。奄美方面の須恵器の存在や、
中国の陶磁器の出土から、沖縄の島々が共通の文化圏をつくりはじめたと同時に、
本格的な海外貿易が始まりました。三山時代になりますと三つの勢力は、中国との
交易を積極的におこない経済力を拡大していきました。
 
 
今帰仁城(なきじんぐすくー世界遺産)
 
1368年成立した中国の明王朝は、周辺諸国に対して朝貢(臣下として服従)を促す
ことにより、明王朝との貿易を許すことをおおやけにしました。
アジア有数の大国である明王朝との関係を築き、貿易を行うために、アジアの多くの
国々が、朝貢関係を結ぼうとしました。1372年には入貢を勧めるために、明王朝は
使者を琉球に派遣し、これに応じて中山王が入貢を始めました。こうして明王朝の対琉球
「朝貢体制」が始まり、南山王、北山王も相次いで入貢していきました。朝貢体制に組み
込まれた三山は進貢貿易、海外貿易によって勢力を充実させる中で、琉球の群雄割拠時代
がしばらく続いていきました。
 
 
 
15世紀に入りますと南部からでてきた按司、尚巴志(しょうはし)が頭角をあらわし、
三山の統一をなしとげここに琉球王国が成立しました。沖縄に初めて誕生した統一王朝は
450年続き、それまでの首里グスクは王国のシンボルとして整備されて首里城となり、
首里の町も城下町として発展していきました。
 
 
 
首里城
 
1492年成立した琉球王国は明王朝と君臣の関係を結び、琉球王国の国王の代替わりには
冊封(さっぽう)の式典が行われました。冊封とは、中国の皇帝が臣下の国の国王を
任命することでした。明王朝との朝貢関係によって、沖縄近海をふくむ東シナ海は多くの船が
出入りする交易の場となり、琉球列島は商人たちが行き交う中継地点としてにぎわいました。
 
 
 
朝貢関係による進貢貿易では中国へのおもな献上品は馬や硫黄、貝類や芭蕉布など沖縄の特産品
や日本の工芸品、東南アジアの珍品などでした。琉球から持ち込まれる品々のうち馬や硫黄などは
中国にとって貴重な軍事物資となったため、中国は琉球を物資供給国として重要視しました。
中国からは陶磁器、銅銭、船、絹織物で、特に大型船の無償支給は、活発な貿易活動をささえる
手段として、朝貢体制のなかで大きな収穫だったようです。琉球王国は巨大な明王朝を背景として
繁栄していきました。
 
 
 
琉球王国は中国と日本本土間との中継ぎ貿易の交流により、双方の文化の影響をうけながら独自の
琉球文化を開花させ、豊かな経済力によって王朝文化が花開いていきました。物質的にも精神的にも
沖縄の歴史上類をみない豊かな時代を迎えました。繁栄する琉球王国の名は「レキオ」として、日本
本土よりも先に当時のヨーロッパにまで知られました。中国と日本本土との中継ぎ貿易は、琉球王国
存続の生命線でした。12世紀のグスク時代から1609年の島津氏侵入時代までの時代を古琉球と
よび、大交易時代を築いた琉球王国の黄金時代でした。
 
 
万国津梁之鐘
 
琉球王国が中継ぎ貿易で栄えた14世紀後半から16世紀までの約200年間を、琉球の大交易
時代とよんでいますが、当時の国王がその繁栄ぶりを記した「万国津梁(しんりょう)之鐘」と
いう鐘が今ものこっています。その鐘には下記の碑文が刻まれています。
  
  琉球国は南の海に浮かぶ景勝の地である。
   
  朝鮮から秀れた物を集め、明国とは車の両輪、
 
  日本とは歯と唇のような関係にある。
 
  わが国は明と日本の間にある宝の島である。
 
  船を持って世界の架け橋とし、名物や宝物は
 
  国中に満ちている。
 
マレー半島のマラッカ王国、バタニ王国、タイのアユタヤ王朝などの東南アジア諸国とも活発な
外交、貿易を展開して、まさに「万国津梁」と言うべき貿易立国として栄えました。「万国津梁
之鐘」は琉球王国のシンボルとして、たびたび火災にあいながら現在に伝えられています。
 
 
 参考資料
 
  沖縄県の歴史       安里進 高良倉吉 田名真一 他      山川出版所
  沖縄の古代文化      大林太良 谷川健一 森浩一        小学館
  沖縄の歴史と文化     金関恕 高宮広衛             吉川弘文館
  首里城の起源を探る    宮野賢吉                 那覇出版所
    琉球グスク群                            琉球新報社
  高等学校 琉球・沖縄史  新城俊昭                 東洋企画(編集工房)

続く

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