11/29 2002掲載
v.K.
<2002年のドレスデン_2:新市街>
(DD11 黄金の騎士 アウグスト強王)
新市街を歩いて幾つかの変化に気付いた。アウグスト橋を渡ったところに黄金の騎士像
がある。いや、あるはずだが台座だけで騎士像がなかった。5m程の高さの黒い台座の上
に、高さ3mは超えようかという大きな金色に輝くアウグスト強王の騎馬像が、新市街の
入り口を見下ろしているはずだったが、現在修理中ということだった。アウグスト強王が
見下ろす先には新市街の中心となる歩行者天国がある。東ドイツ時代からここは美しい通
りだった。幅30mほどもあり、通りの中央部は街路樹が並び、その下にはベンチが用意
され、所々に噴水も配してある。通りと呼ぶよりもプロムナードと呼ぶ方がふさわしい。
人々はここに来るとせかせかと買い物をするのではなく、ゆっくりと買い物を楽しもうと
するであろう。通りの両側の建物の上層階は住宅になっていて、道に面してバルコニーが
設けられている。都心繁華街の真上に住宅を造るやり方は社会主義国の特徴のようで、そ
こに住む人にとっては便利であろう。だがそれは商業活動が活発でなく、オフィス・ビル
の需要がそれほど無いことを意味しているともいえる。
(DD12)
今回この通りはさらに装いを整えつつあった。街路樹は以前にも増して鬱蒼と美しくな
ったように感じられた。行き交う人々の目を楽しませるためのガラスケース入りの大きな
振り子時計は、以前よりピカピカに磨き上げられているようだ。通りの両側の店舗は改装
が進んでいたが、古いままのところもあり、所々に空き店舗もあって、残念ながらおおい
に賑わっているとまでは言えなかった。この次来る時が楽しみである。
(DD13)
通りの中程に古典主義様式のファサードを有する建物がある。200年ほど前の富裕な商人
の住宅だったらしいが歴史的価値があるらしく、白とオレンジ色に塗り分けられ、東ドイ
ツ時代から丁寧に修復がなされていた。
(DD14)
その向かい側には有名なシーフードのチェーン店があり、昼食は娘と二人でそこに入った。
カフェテリア形式になっていて、トレイを取って進みながら好みの料理を指さし、皿に盛
ってもらう。このチェーン店で私の気に入りのメニューは幾つか決まっていて、この日は
ヒラメのフライを取った。ヒラメ2枚が通常盛りだが、娘は昼食だから1枚でいいと言っ
た。確かに日本の魚フライよりかなり量が多い。レモンとタルタルソースを添え、付け合
わせは酢味の南ドイツ風ポテトサラダを取った。ゆがいたジャガイモを薄く切り(つぶさ
ない)、キュウリの薄切り、タマネギのみじん切りにオイル、リンゴ酢、コンソメスープ
を加えて混ぜ、塩胡椒で味付けしたものである。初めてドレスデンに来た時、この子は西
ドイツの幼稚園児だった。日曜日の夕方だったが、東ドイツのアウトバーンではサービス
エリアの店はすべて閉まっており、ドレスデンはまだ遠い。子供達は疲れたのか後部座席
でおとなしくしていたが、私はどこで夕食を食べさせようかと、車を運転しながら焦って
いた。深夜ドレスデンのホテル・ベルヴューに着いた時は心底安堵した。その次女が今は
乙女になって再びドレスデンを訪れ、私と二人でファストフードのヒラメフライを珍しそ
うに食べている。思い出すほどに、娘の笑顔を見るほどに、感慨深いものがあった。
(DD15 黒のサイドカー BMWクラシック)
新市街はエルベ川によって円弧を描くように取り囲まれているが、歩行者天国を抜ける
とこの円弧の中心ともいうべき広場に出る。新市街の主な道路はすべてこの広場から放射
状に広がっていて、その先に架かった橋で旧市街と繋がっている。この広場はドイツ統一
前「統一広場」と呼ばれていた。この名称は実にアイロニカルである。当時の東ドイツ政
府にとって、ドイツ統一とは強大な西ドイツに併呑される悪夢であった。マーシャルプラ
ンに支えられて順調に復興の道を歩んだ西ドイツに対し、東ドイツの支配者となったソ連
は無慈悲だった。ありとあらゆる物を戦争賠償の一部として貨車でソ連に持ち去り、最後
にレールもはずして持ち去った。ロシア人が無慈悲だったのではなく、ロシアは2000万
人の国民を戦争で失い(ドイツは730万人)、ドイツ以上に国が疲弊していたのである。
そのような状況下西ドイツの人口は東ドイツの4倍近くあり、さらに戦勝国間の協定によ
り、西ドイツと西ベルリン間に嫌々ながら陸路を設けねばならなかった。西側は自由にス
パイを送り込むだろうし、それどころかいつ何時自国の交通通信網をずたずたに切り裂い
て侵入してくるか分からず、東ドイツ政府の不安と恐怖は十分察せられるものであった。
自ずと国境での検問は厳しくならざるを得なかった。併呑され消滅しないためにはドイツ
国家の統一はあり得可からざることだった。一方国内的には社会主義統一党(共産党)の
下に結束を強め、その意味を込めた「統一広場」であった。それゆえ東西ドイツが統一す
るとこの名称はあっさりと消し去られ、アルベルト広場という本来の名称に戻された。
(DD16 黒革コート 黒革鞄 ゴーグル
ヘルメットなし)
広場にクラシカルな装いのサイドカーが停まっていた。黒く塗られ、乗っていた二人の
若者も黒革のコートを着込んでバシッと決めていた。日本では見られないファッションで
ある。声をかけるとずっと西のデュッセルドルフから来たという。500kmはある彼方であ
る。やはりデュッセルドルフ近くに住んでいた、今は亡き友人のことを思い出した。私が
日本へ帰る日、彼は東西ドイツ医学生交流会議に出席するため私を空港行きバス停に降ろ
したその足で、東ドイツに向かいカブトムシに乗って去っていった。友は死に、時代は変
わったと密かな感慨があった。
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