2/21 2003掲載

<「プラハの春」を読んで_(2)>                 v. K.
 
(PRH201 ヴァーツラフ広場から旧市街へ行く)
 

 麗しのプラハ。プラハは苦い挫折を味わいました。春は21年後のビロード革命まで待たねばな
りませんでした。そして今人々は「プラハの春音楽祭」を楽しみ、自由と平和の喜びを噛みしめて
います。ヴルタヴァ河畔の国民劇場で、ルドルフィヌム(コンサートホール)で、あるいはモーツァル
トの「ドン・ジョヴァンニ」の世界初演がなされた市民劇場で、アール・ヌーヴォー様式のスメタナ・
ホールで、人々はスメタナやドヴォルジャークの国民音楽に聴き入ることでしょう。旧市街広場に
は悲劇の神学者ヤン・フスの像が、すべてを許すかのように人々を眺めています。平和が戻った
百塔の都で人々はピルゼン・ビールを飲み、壁に掛かったミューシャの絵を眺め、カフカについて
論じていることでしょう。
 
(PRH202 街頭の風景)
 

 小説後半は当時在プラハ日本大使館付外交官であった、著者の面目躍如といったところです。
チェコスロヴァキアを取り巻くソ連、ポーランド、東ドイツなどの国々と政治の表舞台と裏の駆け引
きが退屈しない程度に子細に描かれ、息を呑む思いです。同時に政治の内幕が描かれているの
が東ドイツ。ここでは悪名高いスタージ(国家保安警察)が善玉で描かれています。女主人公の夫
はスタージの高官。女も元は社会主義国東ドイツを建設しようと希望に燃え、党の推薦でモスクワ
留学を果たした才媛でした。しかし次第に自国の体制に疑問を抱き、反体制発言を繰り返すよう
になりました。本来なら厳しい処分に遭うところを、党も夫の立場に配慮して隣国プラハで謹慎処
分にしたのです。政治活動は一切してはならないのに、ドプチェクから懇願されて彼女はラジオの
パーソナリティを引き受けることになります。
「グーテン・アーベント、ドーブリイ・ベーチェル(こんばんは)」
ドイツ語とロシア語で送られるプラハ国際放送。慎重に政治の話題を避けた彼女のディスク・ジョッ
キーは、国境を越えて多くの人の耳に届きます。それがまたソ連や東ドイツを刺激し、彼女の立場
は危険なものとなりました。
 
(PRH203 カレル橋から下流を見る。中央ベージュの建物はコンサートホール)
 

 その間を縫うようにして描かれる、彼女と日本人外交官の激しい恋。知と美の女神のような彼女
が一転して狂おしい痴態を晒す場面がたびたび出てきます。白い裸体から醸し出される芳香を、
芳香の源をたどれば生暖かい稠密な液が溢れ、溢れに濡れた肌は妖しく滑らかに光って、さらに
強い刺激を求めて男を誘う。男の唇は吐息とともに女の首筋から白い胸へと下りてゆき、男が優し
く咬むと女は思わずアウッと声をあげてのけぞらずにはいられない。愛欲のエクスプローラーが陶
酔の極点を探して女の中を激しく往き来すれば、擦りあう刺激の強さに女は全身の毛穴から生汗
が噴き出しそうになり、おもわず男の背中に爪を立てる。著者は緊迫した状況下で二人が我を忘
れて絡み合う場面を、やや硬さの残る筆致で描いています。それがかえって情愛場面のベッドの
きしみが聴こえてきそうな激しい動きを、叫び声をあげてのたうちまわる様を、突き上げられた瞬間
体を駆け抜けるスパークを、眼前が真っ白に光る恍惚を、読む者に想起させます。
 
(PRH204 カレル橋からフラチャニ地区へ。上方にプラハ城)
 

 印象に残っているのは彼女が男を自宅に招待して、鶏だったか牛肉だったかのローストにかけ
るオレンジソースを作る場面です。オレンジなんて東ドイツでもチェコスロヴァキアでも、滅多なこと
で手に入るものではありません。彼女はなんとオレンジジュースを煮詰めてオレンジソースを作る
のです。日本人の男は共産圏の人々の生活の知恵に舌を巻きます。
 
(PRH205 アール・ヌーヴォーの市民会館。中にスメタナ・ホールがある)
 

 以下は私の思い出です。
 現在のプラハの人口は120万人。プラハ市内で小説の舞台となるところは、都心の観光客がよ
く訪れるところと、それほど隔たっていません。プラハを訪れたことのある人は自分の旅行体験を
重ねながら、小説を読み進めてゆくことが出来ます。私のプラハ第一印象は空港から乗ったタクシ
ーの中からでした。車は古いシュコダでした。助手席に乗り、人の良さそうな30才くらいの運転手
と英語でおしゃべりをしました。社会主義国といえばソ連の写真に見るような殺風景なアパートを
想像しますが、初めて見るプラハは古風なしっとりと落ち着いた街並みでした。趣のある石畳の道
に、ヴィラと呼ばれる庭付きの大きな家が、補修が行き届かず傷んではいるが、この地区に比較
的富裕な市民層が住んでいることを想像させるように、大木に囲まれて並んでいました。運転手の
男と何を話したか覚えていませんが、彼が「料金はマルクかドルで払ってもらってもいいんです。
いや、無理にとは言いませんが、、。」と遠慮がちに言ったことを覚えています。初めてのことなの
ですこしためらいましたが、結局半分をコルナで払い、半分をマルクで払ってつりはチップにしま
した。
 
(PRH206 裏通り)
 

 実はプラハ観光で、私は大きな過ちを犯してしまいました。それは観光ガイドブックにドイツ語
版を持っていったことです。ご存じのようにチェコは何百年もの間ハプスブルク帝国の重要な領土
でした。公用語は長いことドイツ語だけで、時代が下ればチェコ語が勢を強め、プラハ市内の道
路標示はチェコ語を優先するというような裁判の判決が出たりもしています。しかし20世紀を迎え
てもドイツ語をしゃべれないと好い職業には就けない。スメタナは初老期になって初めて母国語を
学んだし、カフカはドイツ語で小説を書いた。プラハはそんな街でした。するとプラハ城のあるとこ
ろはフラチャニではなくゥラージンと、城下のマーラ・ストラナ(小地区)はクラインザイテと、繁華街
ヴァーツラフ広場はヴェンツェル広場と理解し、気が付くと私は外来の支配者ドイツ人の目でボヘ
ミアの首都を見ていたのです。ドイツに住むことになった時、英語で話していてはこの国を理解す
ることは出来ないと気付き、猛烈にドイツ語の勉強をしたのに、ボヘミアンに対してはその気持ち
を忘れていました。やはり、ニュートラルな英語で観光すべきだったと反省しています。
 
(PRH207)
外国人用ホテルの3人部屋を占有した。トイレと風呂は廊下の突き当たりにあった。20世紀初頭
までパリやベルリンの一流ホテルでもこれが普通であったろうと推察した。
 

(PRH208)
物珍しさに東ドイツ製カラーフィルムを買って撮ったら、青みが強かった。ホテルの表通り。

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oo  TEL 0942-43-5452
oo  apfel = apple
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