10/15 2004掲載
v.K.の・・・・・ドレスデン・レポート「旧東ドイツの医療制度について」
≪医療制度の変遷≫
東ドイツ一番の大都市は旧東ベルリンで,人口は約120万人。それに次ぐのがライプツィヒとドレスデンで人口は約50万人。それ以外の都市は人口10万人程度の小都市で,東ドイツ全体の人口は約1,700万人であった。因みに旧西ドイツの人口は約6,500万人で,これらが統一により人口8,200万人の欧州一の巨大国が出現した。旧東ドイツでは西に逃げる人が後を絶たず,東ドイツは建国から10年そこそこで国家存亡の岐路に立たされた。そこで作ったのが東西ベルリンおよび東西ドイツを隔てる壁である。1961年に作られた。自国民を壁の中に閉じこめ,人口流出に歯止めをかけたものの,東ドイツは慢性的に労働力不足に悩まされ,若年者や就労可能年齢層の流出は壁が出来た3年後の1964まで続いた。また第二次世界大戦の後遺症でもあるが,女性に比して男性が少なかった。それらは直接的に労働力不足を招いただけでなく,長期的な人口動態にも影響を与えた。すなわち1969年以来死亡率が出生率を上回り,人口の自然減が続いた。自然増に転じたのは1979年に至ってであった。そのような東ドイツで,医療機関はどのような形で存在していたのであろうか。
エルベ川をチェコの方に上った風光明媚な地方を<ザクセンのスイス>と呼ぶ。遠方に砂岩の台地が見える。
ドイツでは伝統的に病院の入院部門と外来部門がかなり明確に分かれているようである。その伝統は東西二つに分かれたドイツでも受け継がれていた。入院と外来で建物が別個の場合も多い。また診療科も独立性が高く,例えば旧西側のミュンヘンを例にとると,ミュンヘン市立シュヴァービンク病院は広大な敷地の中に各診療科の建物がゆったりと配置されている。ミュンヘン大学医学部の場合もっと大規模で,塀に囲まれた医学部キャンパスがあるわけではないが,街中に各教室がそれぞれ独立した建物を持ち,教室の間を通る街路には世界に名を知られたドイツ人医学者の名前が付けられ,さながら広大な医者の街を形成している。しかしそのようなドイツでも,最近は巨大な建物の中に多くの診療科が同居する形式に変わってきた。
話をドレスデンに戻そう。東ドイツ時代のドレスデン,人口50万人ほどのこの都市には10を越す病院があった。もちろん全て国立である。そのうち幾つかは呼吸器疾患、リハビリテーションあるいは精神病院などの専門病院であった。通院患者に対する診療はそれらの病院とは別の施設で行われた。それらのうち都心にある比較的大規模なものはポリクリニークPoliklinikと呼ばれ,周辺要所に設けられたものはアンブラトリウムAmbulatoriumと呼ばれた。言うまでもなく英語のambulance(救急車)と同語源である。アンブラトリウムはポリクリニークに比べて規模が小さかった。病院へ入院するのは救急を除き,ポリクリニークやアンブラトリウムからの紹介に拠るのが通常のルートだった。救急医療はオーストリアやスイスを含めたドイツ語圏諸国では自治体や公益団体が公共的使命として行うのが通常であって、統一後も民間病院が救急医療に携わることはほとんど無い。
砂岩台地の一つはかつてのクーニッヒシュタイン要塞である。
「ポリクリニークは病院Krankenhausではありません。Hospitalではなく,Out Patient
Departmentです」と,私が正しく理解していないと思ったのか,R氏は英語を添えて言った。つまり日本の大病院の外来部門だけを切り離して建物も別個のものにしたのがポリクリニークであり,中小病院の外来に相当するのがアンブラトリウムである。これら外来診療部門の中心をなす診療科は「全般医学科Allgemeinmedizin」である。ここに属する医師は全般医Arzt
fur
Allgemeinmedizinと呼ばれる。内科外科は勿論皮膚科眼科等にも精通し、そのカバーするところは臨床医学全般である。体の変調を訴えれば大半の人はまず全般科を訪れ、そこで治療を受けるなり専門医に紹介されるなりする。日本ではいずれの医師も専門化が進み、その弊害が指摘されて久しいが、このような全般医の育成が今後求められるであろう。
ドイツ語では病院のことをクランケンハウスKrankenhausというが,大学病院などはクリニークKlinikと称する。それに対してPoliklinikはあくまで外来診療施設を指す。では総合病院はどう称するかというと,例えばドレスデン大学病院及び外来Klinik
und Poliklinik der Universitat
Dresdenのように称している。我が国では医学部の臨床実習を昔ポリクリと言っていたようだが,おそらくドイツ語のポリクリニークに由来するのであろう。余談だが中世や近世修道院が運営していた病院はシュピタールSpitalと呼ばれていた。見て明らかな如く,英語のhospitalと同語源である。この言葉は現代スイスドイツ語の中に生き長らえている。
ザクセン候家宝物室所蔵,真珠と宝石で飾られた人形。
さて東ドイツのポリクリニークであるが,R氏によればドレスデン都心にあったものは,ほぼ全ての診療科をカバーする大規模なものであった。総合受付があり,各科外来があり,共用の検査施設があり,全体を統括する施設長がいた。都心を離れた住宅地にあるチェルトニッツ(R氏の自宅がある地区)には小規模のアンブラトリウムと病院が少し離れて建っていた。これらの病院,ポリクリニーク,アンブラトリウムは全て国営であり,そこで働く医師,看護婦,検査技師,薬剤師らは国家公務員であった。医師や看護婦には月給と,夜勤の回数に応じて手当が支払われた。では地方ではどうであったか?
小さな町や村では(ドイツでは町に相当する行政単位は無く,実際には市か村のいずれかになるが,便宜上こう表現しておく)人口の大小に応じて様々な規模のアンブラトリウムがあった。一番小規模のものでは全般医が一人いるだけで,つまりこれは我が国の村営診療所に相当するものであったろう。我が国と違って開業医は存在せず,全て勤務医であった。彼らは国家によって年間5週間の休暇が保証されていた。休暇を取る権利は体制の違いを超えて東西両ドイツで浸透している。西ドイツでは年末が近くなると労働組合から、あなたの有給休暇はまだ幾日未消化なので速やかに取得して欲しいと通知が来るが、東ドイツの医師にも医師会から同様の通知が来ていたそうである。因みに開業医のいない東ドイツの医師会は学術面と実地医療に加え、労働者としての医師の権利を擁護する団体でもあった。西ドイツの開業医も概して年間5週間程度の休暇を取っていたようである。どのような仕組みで代診医師を招くのかよく判らない。
東ドイツの健康保険は国営のものが唯一つあった。保険料は所得に応じて数段階に分かれていた。健康保険については項を改めて触れる。
ドレスデン国立絵画ギャラリー<アルテ・マイスター>より,
おそらくは最も有名な<聖シクスティヌスの聖母> ラファエロ作 1512年頃