5/22 2006掲載

イタリア旅行 フィレンツェ・レポート Part2

v.K.

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 初めてのフィレンツェ訪問で見るもの全てに目を奪われた人が、2度目の訪問で今回是非あれをまた見たいとか、この際漠然とした知識を整理したいと思うことはあるでしょう。たとえばウフツィ美術館を一日かけて鑑賞したいとか、ミケランジェロはフィレンツェに何を残したんだっけとか。
 私の今回の念願はサン・ロレンツォ教会を必ず再訪することでした。
 

 サン・ロレンツォ教会はメディチ家の菩提寺です。古い教会を壊した後、15世紀中頃建立されました。手前が教会。後方二つの円蓋は君主の礼拝堂と新聖具室です。びっくりしたのはこのファサード。荒々しい砂岩のむき出しです。しかし中にはいると打って変わった芸術的空間が開けています。後の写真で紹介しますが、その建物内外の落差にびっくりしました。イタリアって凄いなあと思いました。ルネサンス期の建築には、外装に砂岩のザラザラした感触をそのままにした荒々しいものが多いので、これもその一例かと思いましたが、実はそうではなかった。ファサードの制作を依頼されたミケランジェロが、様々の不運な事情が重なって、とうとう制作を放棄したまま現在に至っているのです。
 
 ここで歴史上の時間をチェックしておきましょう。
ミケランジェロ・ブオナッロティの生きた時代 1475年 - 1564年
コロンブスによる新大陸発見 1492年
ルターによる宗教改革の始まり 1517年
足利義政と応仁の乱 1400年代後半
 

 君主の礼拝堂向かい側のバール(Bar )でピッツァの昼食。にいちゃん愛想良いんだから。このバール雰囲気良かったなあ。
 

 これが教会内部。清涼感があり、明るく、整然、すっきりとしています。主イエスに許しを請う空間というよりも、知性を感じさせる、理知的空間とも感じることが出来ます。これがルネサンス教会建築の一典型です。
 伝統的な半円形アーチを多用してありますが、中央部(身廊)天井にアーチはなく、左右の柱列に梁を架け、その上に屋根を乗せたバシリカ様式であることが解ります(こういうのをバシリカ様式といいます)。カラフルなステンドグラスはなく、後世のバロック〜ロココ様式の華美すぎる装飾もなく、印象としては簡素ですが、なんといってもメディチ家の菩提寺です。納められている絵画、彫刻、建築、聖具は超一流のものばかりです。
 今回は君主の礼拝堂とミケランジェロの新聖具室を紹介します。どちらもメディチ家の霊廟です。
 

 メディチ家礼拝堂
 メディチ家はその名前から医薬品の販売を手がけて財を成したとも言われています。大きくなったのは銀行業で成功してからです。その後権力者、統治者として台頭し、遂にはトスカナ大公となり、フランス王家に二人の女を嫁がせ、ローマ教皇を二人輩出しました。そのようなメディチ家は、彼らの生前の権勢と威光を死後も人が忘れることの無いようにと、このような豪華極まりない礼拝堂を建立しました。ここには数人のメディチ家君主が安置されています。
 この絢爛とした礼拝堂はメディチ家が権勢の極致にある頃建てられたと、思いがちですが、実は建設が始まったのは1602年、オランダが東インド会社を設立した年で、この頃のフィレンツェは、いや、イタリア全体が徐々に衰退の時期にありました。写真を見ると大理石を貼っただけにしか見えませんが、、、
 

実は細部の加工の精緻なこと、おもわず「すごーい!」とうなってしまいます。象嵌細工です。
 

 これらの装飾に用いられた石材は、大理石、多色の花崗岩、班岩、バルガの赤色岩、コルシカ島の緑色岩、碧玉、アラバスター、石英、ラピスラズリ、珊瑚、真珠などです。フィレンツェに貴石加工所というのがあり、もともとメディチ家が設立したものですが、そこに余裕の無くなった財政の中から少しずつ建立費を捻出し、ゆっくり時間を掛けて建立しました。1870年代に貴石加工所に発注された床張り工事が完成したのは1962年のことだそうです。
 

 次に新聖具室を紹介します。大きいドームは君主の礼拝堂、小さいドームは新聖具室です。イタリアは凄いなと思うのは、このような荒々しい外観の建物の中に、芸術的別世界が開けていることです。
 

 ミケランジェロ作、新聖具室。部屋全体がミケランジェロの作品です。今回のフィレンツェ行きで絶対欠かすことの出来なかったのは、ここでした。
 ちょっと解りにくいかもしれませんが、ここは一辺約12メートルの正方形の床を持つ部屋です。左右の写真は向かい合っていると思って下さい。この空間は多少色彩はありますが、色の数が限られています。床の太い線、柱、水平方向の太い帯、その上の半円等の濃い色は褐色がかって見えますが、実際は緑です。ここに入ると精神の緊張を感じます。直線、曲線は厳密に計算された長さなのでしょう。
 

 ここには夭逝したメディチ家の二人の貴公子が眠っています。ローマ時代の軍服をまとった像はヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチです。副官の報告を聞くかのように横を向いた姿勢は、行動力と意志の強さを表しています。勇敢さを象徴したものでもあります。その足元の石棺の上に横たわるのは、男性の姿をした「昼」と女性の姿をした「夜」です。「昼」の表面はわざとのようにザラザラと、粗な面のままです。「夜」の肌は対称的に冷たさを感じさせるように、滑らかです。
 

 「夜」はいくつかのアトリビュートを備えています。頭に星の付いた宝冠をかぶり、足元には眠気を誘うケシと墓地の主人フクロウ、左胸の下には悪夢に出てくる奇怪な男の顔。「昼」にはこのようなものはありません。
 

 反対側の壁面にあるのはウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの埋葬記念碑です。ロレンツォはやはりローマの軍服をまとっていますが、思慮深く何かを考えている、あるいは瞑想している姿です。哀愁が漂っているようにも見える。実際この人は後世「沈思の人」と呼ばれているそうです。支配者に必要な知性を象徴しています。あるいは支配者に必要な寛容さも表現されているのかもしれません。
 その足元にいるのは男性の姿を借りた「黄昏」と女性の姿を借りた「曙」です。
 

「昼」と「夜」、「黄昏」と「曙」の四体の擬人像は何を象徴するのでしょう? 活動と休養、疲労と回復、時間は過ぎゆく、日はまた昇る、時は永遠、貴公子達には限りがあったなどなど、、。 「黄昏」の鍛えられた肉体と表情の奥の深さ。ロレンツォの心の深さを表しているのだろうか? 「曙」の均整のとれた美しさ。支配者に求められる均整と調和のことなのか?
 

 二人の貴公子の視線の先にいるのは、赤子キリストを抱く聖母マリア。このマリアは美しく、均整がとれすぎている。私が感じたそういう批判は、ミケランジェロ存命中から既にあったそうです。
 

 さてサン・ロレンツォ教会のすぐ近くに、メディチ家初期の本拠。メディチ−リッカルディ宮殿があります。これもルネサンス時代支配階級住宅の典型です。外観一階は荒々しい砂岩の作り。それが二階、三階と上がるほどに丁寧な仕上げになっています。まどは典型的ルネサンス窓。各階の高さが日本と違って、階段上がるのに疲れます。この建物、今の日本なら五階建ての高さでしょう
 

 宮殿内側には中庭があります。中庭をアトリウムといいます。最近あちこちでチラホラ聞きますね、アトリウム。心臓には左右の心房と心室とありますが、心房をアトリウムといいます。
 

 アトリウムを抜けると裏門に続く庭があります。ここにオレンジの鉢植えが並んでいました。
 
 余談ですが、オレンジを見るとドイツを思い出します。近世以前ヨーロッパにバナナもメロンもパイナップルも無い頃、リンゴと野いちごは百姓の食べ物。ブドウはあったでしょうが、それ以外ではオレンジは南欧から伝わってきた高級果物で、貴族は競ってオランジェリー(温室)を作ってオレンジを栽培しました。その舶来高級品であった名残が今でも言葉に残っていて、ドイツではオレンジをフランス語風にオロンジュ、またはオゴンジュと発音します。それも口腔を縦に広げて喉の奥から発音しながら、空気を鼻腔に抜かして。
、、、イタリア語でオレンジをどう発音するのか、聞き忘れました。
 

 現在この宮殿は貴重な文化財であるにもかかわらず、フィレンツェ県の役所として使われています。ここはタペストリーの間といって、壁に掛かっているのは結構貴重な文化財らしいのですが、県議会場として使われています。
 

 ここは鏡の間。メディチ家のレセプションルーム、ボールルーム。今ではフィレンツェ県庁や県議会がレセプションに使っているのでしょう。
 

鏡にクピドーの絵なんか描いてあって、ちょっと面白い。
 

ここに写る自分が、いつも以上に美しく見えちゃったりして。
 

今日はいっぱい見学して、勉強になりました。疲れちゃったので、ドゥオモ真横のカフェテリアで一休みでーす。
 

 近々フィレンツェに行かれるかもしれない三王システムHPご愛好の皆様方のために、位置関係を説明します。
緑矢印:メディチ−リッカルディ宮殿。この左奧にサン・ロレンツォ教会。
黄矢印:前の写真のカフェテリア。セルフサービスです。イタリア語不要。紅茶がうまい。
赤矢印:シニョーリア広場、ヴェッキオ宮殿、ウフィツィ美術館方向

青矢印:次回紹介予定のアカデミア美術館。

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