6/16 2006掲載

v.K.
 
 

フィレンツェ・レポート最終回
  v.K.
先日唐津の同窓会で、あるおとうさん、「俺も女房と娘連れて海外旅行したが、娘はもう絶対お父さんとは旅行せんと言いよる、、。」
いえいえ僕だって最大細心の注意、配慮、思いやり、譲歩プラスお買い物に付き合うことで達成出来た親子旅行でした。娘は娘で、忍の一字でパパにサービスしてあげたと思っているのかも。
 
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すこしトスカーナを紹介します。
 


25年前の8月のピサ。ピサはフィレンツェから西へ1時間あまり、地中海に面した町です。ピサ大聖堂はラテン十字型の交差部に円蓋、半円アーチでファサードを装飾した、典型的ロマネスク様式のバシリカです。 赤いショートパンツ姿のF.v.K.と長女。
 


15年前学会でフィレンツェに行った時は市内のホテルは満室で、ピサ方向にアウトストラーダ(アウトバーン)を40分ほど行った保養地に泊まりました。こんな田舎に泊まったのも、楽しかった。写真は泊まったホテルですが、こんな古びたホテルもイタリアでは絵になるのです。窓の日よけ扉はドイツでは完全に装飾品の役割になっていますが、イタリアでは実用品です。日差しが強く乾燥しているので日中は閉じられて、通風だけが保たれています。色はほとんど濃い緑色で、一部褐色のこともありました。
 


ホテルの部屋から見たトスカーナの田舎。
 


今回の父と娘旅行レポートに戻ります。パスタがうまいのは言うまでもないが、チーズも生ハムもこんなに美味しいのは日本では食べられない。食べなくっちゃ、食べなくっちゃ。
 


ここはシニョリーア広場。政治の中心地です。中央の舞台様建物はロッジャと呼ばれます。日本語では露台とか開廊とか訳されています。そもそもの用途はシニョリーア広場に睨みを効かす兵隊の詰め所だったようです。
ロッジャ左手の建物が有名なウフツィ美術館。同美術館に隣接してベッキオ宮殿という壮大な建物があります。
 
宮殿(パラッツォ)といえば、たとえばヴェルサイユ宮殿やバッキンガム宮殿のように、王侯の居所のような印象がありますが、実際には公共的な大きな建物をそう呼ぶようです。ドイツでは映画館にも宮殿と称するところがありました。ソ連時代のモスクワで、大会議場を宮殿と呼んでいたのが解りました。
 


ロッジャにはメディチ家が集めた彫像が陳列されています。左は「メデューサの頭をかかげるペルセウス」。この流れる血から天馬ペガスース(ペガサス)が生まれます。
右は「サビーナの女の掠奪」。うねるような、いかにもバロック風の作品ですが、実際にはバロック期以前の1583年、ベルギー人ジャンボローニアという人の作品です。
 


ベッキオ宮殿入り口。左はフィレンツェの象徴、ミケランジェロ作「ダビデ」のレプリカです。ベッキオ宮殿は市庁舎として、あるいはメディチ家の住まいとして政治の中心となった建物です。この中は実に見学に値しますが、今回は時間がありませんでした。
 


ウフツィ美術館の中はこの一角を例外として写真撮影は禁じられています。天井の装飾はイタリア・ルネサンスに特徴的なものです。
 


左の絵には豊満な乳房を持った女性の両手は鳥の羽根、脚は一本の獣様の脚といった奇怪な人物像が描かれています。右の絵ではむき出しになった男の肛門めがけて、半人半獣の男が矢を射ようとしています。このような奇怪な人物や、やはり奇怪さを漂わせた草木鳥獣などの具象が延々と連続しています。これをグロテスク様式といいます。
 
ウフツィ美術館を始めフィレンツェにある美術品は膨大なものです。たとえば


ご存知ボッチチェリ 「春(部分)」と「ヴィーナスの誕生」
 

(左) マザッチョ 「楽園を追われるアダムとエヴァ」
(中) ティツィアーノ 「ウルビーノのヴィーナス」
(右) ラファエロ 「ヴェールをかぶった女」
 


(左) サスターマンス 「ガリレオ・ガリレイの肖像」
ガリレオはピサ大学教授。地動説に端を発するローマ教皇庁の異端裁判は有名ですが、教皇庁は多くの場合ガリレオに好意的に対処しています。ガリレオは敬虔なカトリック教徒で、自身教皇庁の中に知己を得ていました。さらにガリレオはトスカーナが誇る科学者なので、その当時メディチ家から相次いで教皇となったジョヴァンニ・デ・メディチつまり教皇レオ10世や、ジュリオ・デ・メディチつまりクレメンス7世の庇護があったと考えられます。
 
(右) レオナルド・ダ・ヴィンチ 「受胎告知」
柔らかい、線とは言えない線を描く技術の持ち主レオナルド。さっすがーぁと言いたくなります。当時の大主題「受胎告知」。いったいフィレンツェには何十枚の「受胎告知」があることでしょう?
 


ミケランジェロ 「ダビデ」フィレンツェの象徴。知性、正義、健全な精神、肉体美の極致、敵と対峙する勇気などが表現されているそうです。
 


フィレンツェを発つ前に、極上「魚のスープ」を食べました。これを食べずには日本に帰れない。あいにく写真を取り忘れて、これはデザートです。ここはホテル最上階。窓外にライトアップされたドゥオモが。
これから夜行列車に乗ってドイツのミュンヘンに行きます。
 


21時50分発ミュンヘン行き、一等寝台二人用個室。うーん、何十年ぶりだろう。はしゃぐなあ。
 


洗面台があって、鏡も付いている。鏡の扉を開けると飲料水が。この車両にはシャワーも付いています。
 
私たちは時々国際化とは何ぞやと、堅苦しい議論をしますが、この列車の国際性は理屈以前のものでした。
まず、ドイツ鉄道とイタリア鉄道(トレニターリア)の共同運行です。両者とも国鉄が民営化されたものです。この日の車両はドイツ鉄道でした。日本で事前に購入した切符はなぜか全然関係ないフランス国鉄の発行でした。
若くてハンサムな車掌がやって来ました。この人はドイツ人でした。
「グーテン・アベント、ボナセーラ。ドイツ語でやる? イタリア語?英語?」 
「ミュンヘンには朝6時35分に着きます。その前に朝食持ってきます。コーヒー? 紅茶?」
「旅券は明日の朝まで預かっておきますね。じゃ、ボナノッテ、シュラーフェン・ジー・グート」
翌朝ミュンヘンに着いた時、引いていた電気機関車はオーストリア国鉄でした。たぶんインスブルックから牽引したのでしょう。
 


アルプスの北側、ミュンヘンは雪でした。
 


ミラノとフィレンツェでは、ほどほどののホテルに泊まったので、ここだけは以前も泊まったバイリッシャー・ホーフです。お金のない若い頃、いつかはこのホテルに泊まりたいと、人生の目標にもしたホテルです。早朝着いたので、早速朝食です。席に着くと同時にウェイトレスが持ってきたオレンジ・ジュースの美味しかったこと!
 

朝食はこんなふう
 


お馴染み市庁舎の時計塔も雪の中。
 

ショウ・ウィンドウから抜け出して来たかのようなセイラさん。ショウ・ウィンドウに残ったマネキンと一緒に時計塔を見上げます。
 

市庁舎地下のいつも行くレストランで昼食です。今晩は私のボス宅に招かれているので、軽く済ませます。セイラさんが取ったのは「オペラ前の軽いディッシュ」緑色のは表面がタイルで覆われた暖房器具。冬場はとても気持ちいいんですよ。

ところで木貼りの壁と上部の白い石膏壁、それに落ち着いた木製の卓。あの当時から良いなとあこがれていた調度と内装です。これらは伊都の丘病院の診察室に生かされているんですよ。
 
 
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oo  v.K.
oo  TEL 0942-43-5452
oo  apfel = apple
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