12/11 2006掲載


<<Schloss Herrenchiemsee シュロース・ヘレンキームゼー>>


ヘレンキームゼー城は、ルートヴィヒ2世があこがれたルイ14世の居城ヴェルサイユ宮殿を、厳密に
模写して建てられました。ヴェルサイユはもちろん遙かに規模が大きいですが、ここに見られる宮殿
2階の端から端まで「鏡の間」です。庭園の造りも噴水も全く本家そのままです。後年ヴェルサイユ
を訪れた時、「あ、ヘレンキームーゼーそのままだ!」と、馬鹿な感心をしてしまいました。

 どこの宮殿でもそうですが、王侯貴婦人達がきらびやかな宮廷生活を送るのは2階部分です。
だからヨーロッパではこの部分を1階と呼び、私たちが言う1階は下僕の領域という意味を込めて、地
上階と呼ぶようになったのかもしれません。でもロシアのサンクトペテルブルクでは日本と同じ階の呼び
方でした。

 


キームゼーというのは、キーム郡にあるバイエルン州最大の湖水のことです。ゼーSeeは英語のseaのこ
とです。キーム湖に大小二つの島があって、大きい島を男島(ヘレン島)、小さい島を女島(フラウエン島)
と言い、城館は男島にあります。(もっとも図を見ると子供島みたいな小さな島もありますが。)
 図の背景はバイエルン・アルプスです。

 


写真ではこのような景色です。

 


城館はヘレン島にこのように位置しています。この島にはわずかな漁民以外住む人もいず、人間嫌い
のルートヴィヒ2世には格好の立地でした。しかし完成した部屋はほんの一部で、王の死後工事は放
棄されました。庭園の先には湖面があり、対岸の町が見えます。

 

 ルートヴィヒは政務にはほとんど関心が無く、フランスびいきの彼は1870年の普仏戦争に際し、出
兵を渋って国民の失望を買いました。映画「ルートヴィヒ」中に「王は1866年の戦争に際しオースト
リア側に立って参戦した」というナレーションがありました。この戦争は普墺戦争です。映画ではルートヴ
ィヒの失政だったとするニュアンスがありましたが、そうではなかったでしょう。今日でもバイエルンは、北ドイ
ツよりもオーストリアに近親感を抱いているのですから。

 

 この普墺戦争について少し触れておきましょう。フランス、イギリスという大国から産業革命で後れを
取り、しかもイタリアも数年前統一を達成した1860年代、ドイツにとって統一は死活問題でありました。
ドイツ語圏というのがあって、それは北は現在のリトアニアから、南はイタリア・ヴェニスのすぐ北まで広が
っていました。そのヨーロッパの半分近い広い地域に50近い国があり、ヴィーンからベルリンへ行くのに幾
つもの国でパスポートにスタンプを押してもらい、物資輸送には何度も関税がかけられる有様でした。
これで産業が発達するはずがありません。そこで厄介なのはオーストリアです。この国はご存じ多民族国
家ですから、オーストリアが統一ドイツ国家に入ればドイツ民族以外もドイツ国民となる。当然これは次
の問題を招きますね。オーストリア抜きでドイツ民族国家を作ろうという気運が自然に高まってきます。
プロイセンのビスマルクはオーストリアとの一戦は避けられないと考えました。(続く)

 


庭園の中央に噴水があり、、

 


何匹ものが口から盛んに水を噴き出しているところも、ヴェルサイユそのままです。

 


見事な階段室。壁の絵はだまし絵になっています。やっぱりルートヴィヒ、大勢の人に見られていたい願
望はあったのかな?

 

 プロイセンはデンマークとの間で度々領地をめぐって戦争をやっていましたが、ビスマルクはこの問題にオー
ストリアを誘って決着をつけようとしました。ルートヴィヒ2世が即位した1864年のことです。加勢してくれた
ら、獲得した領地の半分をオーストリアが取っていいよというわけです。オーストリアはそれならばと参戦しまし
たが、実はビスマルク、ものすごい深謀遠慮がありました。彼の真の狙いはオーストリア軍の軍事力を間近に
見ることでした。友軍として、オーストリア軍の装備、火力、作戦能力、補給力、通信能力などをことごとく
調べ上げました。そして解ったことはプロイセン軍の小銃は最新の手元装填式なのに対し、オーストリア軍
は従来の先端装填式であること等々。これなら勝てると、ビスマルクは確信を持ちました。多分バイエルン
軍もオーストリア軍と似たり寄ったりだったでしょう。そしてデンマーク相手の戦争が終わると彼は早速オースト
リア国境方向へ道路と鉄道を敷設しました。

 

 そして口実を作ってのオーストリアとの戦争(1866年)。ここでバイエルンは前述のごとく、オーストリアに付
くという判断ミスを犯しました。映画「ルートヴィヒ」の中で、皇后エリザベートが「夫は戦に負けてばかりいる」と
、フランツ・ヨーゼフ2世を非難するシーンがありました。それはこの戦争を指しているのでしょう。(続く)

 


 鏡の間。ご存じのとおりバロックの宮殿では空間を広く見せるために鏡が多用されました。ヴェルサイユでは
夜ごと鏡のまで舞踏会が催されましたが、ここヘレンキームゼーではどうだったのでしょうね? 何千本という蝋
燭に灯をともし、ルートヴィヒは華やかな空間を一人で独占したのでしょうか? 私たち観光客に対しては、
毎週のように蝋燭の光の下で室内楽の夕べが催されます。内容は程々のものでしたが、雰囲気は他では
味わえないものがありました。

 本家ヴェルサイユより改良された点は、トイレがあちこちに作られたことです。本家はあの広さにトイレは一つ
もなく、皆便器使用か、あるいは何気なく庭に出てコルセットで広げたスカートの下そっと用を足すのが通例で
ありました。トイレを作ったということは、ルートヴィヒここで夜会を開く気があったのでしょうか? また、本家ヴェル
サイユの鏡の間では普仏戦争に勝った1871年、ドイツ皇帝の戴冠式が行われました。

 


バロック最盛期様式の「上奏の間」。さすがに金色主体のバロック装飾は、臣下を睥睨するような威厳があり
ますね。背後の肖像はもちろん太陽王、ルイ14世です。

 


しかしバロックが隆盛したのは17世紀後半から18世紀前半です。ルートヴィヒが生きた19世紀中葉流行した
建築様式は新古典主義といって、ギリシャ、ローマ神殿の柱を室内装飾に取り入れ、過度の装飾を控えて左
右のシンメトリーを重視したものです。フランスではアンピール様式と言うようです。アンピール(帝国)とはナポレオ
ン1世を指すのでしょう。参考にあげたのはニコライ2世の執務室です。

 

 ビスマルクの目標とするのはドイツ統一です。普墺戦争に勝つと、彼は周辺の国々をまとめて「北ドイツ関税
同盟」を作りました。これはつまり、各国の主権は尊重し、輸出入関税は撤廃するわけです。こうやって産業発
展をはかる。領主には名誉を、国民には実利をというわけですね。その次にどうするか。ビスマルクはフランスとの
戦争はあると考えていました。大国フランスを相手にすればドイツ諸邦は一気に結束する。彼は密かに慎重に、
戦争の準備を進めました。

 スペイン王位継承問題が、なぜプロイセンとフランスの間で戦争の種になるのかよく解らないが、とにかくこれが
好材料だったらしい。ビスマルクはプロイセン国王からの電報を改ざんし(今で言う「やらせ」です)、フランスを挑
発して普仏戦争を起こし(1870年)、それに勝利しました。(続く)

 


<<Schloss Linderhof
 シュロース・リンダーホーフ>>

 


 ルートヴィヒが戴冠したのは1864年、19歳の時でした。若い頃の彼は美男で、若い頃は何枚も肖像が描か
れています。これもよく見る絵です。しかし彼は女性に関心がなかった。エリザベートにだけ、ほのかな恋心を持って
いたと言われていますが。

 普仏(独仏)戦争でルイ14世の国に勝利したことはルートヴィヒにとってどんな気持ちだったのでしょう? この
年(1871年)彼は26才でした。映画「ルートヴィヒ」では弟オットーが戦争によって心を病むシーンが出てきます。
ルートヴィヒは戦争に無関心を装っていたようです。あまりミュンヘンのレジデンツ(ヴィッテルスバッハ居城)にいること
もなく、この年はまだどの城も無い頃なので、何処かの城を渡り歩いていたのでしょう。

 

 映画ではドイツ帝国へ加盟するための署名を求められ、激しく拒絶するシーンがありました。

「ドイツ帝国へ加わることは、バイエルン王国を明け渡すことだ。ビスマルクにバイエルンはやらん!帝国には加わ
らない!」

このシーンだけでルートヴィヒが先見の明がない馬鹿殿様だったとは、言えないでしょう。大抵の国の領主はドイツ
統一が時代に流れだとは認識しつつも、自分の国はいったい存続出来るのだろうかという、漠然とした不安を拭い
きれなかったことは、察しが付きます。今日生き残りをかけて大企業大銀行が合併しています。何回か合併を繰り
返しているうちに、元の名前は吸収され、表からは見えなくなってゆく。

 


ここでルートヴィヒが作った三つの城館の位置を地図上に示しておきます。すべてオーバーバイエルンの前アルペン高
地に建てられました。

 

 結局ドイツは帝国Reichとして統一されました。その帝国は約30の王国、大公国、候国、自由都市などの連合
体で、プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねることになりました。帝国内各地に王様や大公様が何人もいたわけで、ルート
ヴィヒが心配する事態には至りませんでした。それどころかビスマルクは、プロイセンから見れば横綱と関脇くらい実力差
のあるバイエルンに対し、十分な配慮をしています。バイエルンなど南ドイツ諸邦が反発すればドイツ帝国はまだまだ
解体する可能性もあったのでしょう。

 

 ドイツ帝国についておさらいをしておきます。最初のドイツ統一は神聖ローマ帝国です。しかしこの実態は、皇帝の
元に統一されたものとは言えなかった。末期には実体を為さなくなり、19世紀初めナポレオンによって解体されました。

 それが1871年プロイセンによって統一されました。ドイツ人はドイツ統一というと、これを指して言います。この帝国
は第一次世界大戦によって終焉し、戦後左翼の台頭で政治的に混乱しますが、それを終息させたのがヒトラーで、
彼らは自分たちが支配したドイツを第三帝国と呼びます。

 その後第二次世界大戦があり、ドイツの東西分裂があり、1990年ドイツは再度統一されました。この統一はドイ
ツ人にとって1871年以来の「再統一」なのです。ナチスの時代を否定する気持ちも込められているのでしょう。

 

 


リンダーホーフ城は1878年に完成しました。ヘレンキームゼーが模倣であり、ノイシュヴァンシュタインがあまりに非現実
世界であるのと比較すると、一番まともと言えます。外観は白亜のルネサンス様式です。ルートヴィヒはここで数年間暮
らしたそうです。

 


立派な前庭と後庭が付いています。

 


この日は前庭にも背景の山にも雪が残っていました。私が着ているオーバーコートはローデンマンテルといって、バイエルンや
オーストリアで広く着られている民族衣装です。元々森の中の狩猟着で、とても暖かい。胸元きっちり、腰から下は広がる
ようになっています。色は濃い緑が基本です。

 


館正面には芸術を賛美するギリシァの神々が飾られ、最上部にはアトラスが地球を抱えて立っています。
雪は止み、良い天気でした。

 


館の中はルネサンスと言うよりも、ここはロココ装飾の寝室。ほんとにこんな部屋で眠れるのでしょうか?

 


ルートヴィヒに欠かせないのが、洞窟趣味。かれはルネサンスの館の中にこのような幻想的な洞窟を造り、ゲルマン民族の
神話
の時代を再現したのです。水を張って船を浮かべ、奥の壁には伝説の一場面を描き、所々に置いた蝋燭で全体を
妖しく浮き上がらせ、彼は幻想の世界に浸ったのでしょう。

 


娘を背負って。

 


リンダーホーフのあるところはオーバーアマーガウといって、カトリック信仰の厚い土地です。10年に一度大々的なキリスト受
難劇
が上演され、観光客が押しかけます。普段はキリスト教関係の木彫が土産物として売られています。我が家にもマリ
アやクピードが何点かあります。

 


この町で有名なのが建物外壁に描かれた様々な壁画。

この建物には様々な軍服を着た軍人が描かれています。窓の木製扉は今日では完全に装飾化しています。

Gasthof Post ガストホーフ・ポスト」というのはドイツ中どこにもある(といってもチェーンホテルではなくて)安心して泊まれる
ホテルです。昔町の中心に郵便馬車の駅があって、そこが大抵旅館を兼ねていたことからこの名前が残っています。昔は領
主が自分の領内の郵便事業を手がけ、それが次第に有力領主の事業に統合されて行きました。

 


ここには庶民の様々な仕事がだまし絵風に描かれています。

 


SCHUシューは靴のこと。

このほか、赤ずきんのお伽噺を描いているので有名な、「赤ずきんの家」などあります。

 

次回はノイシュヴァンシュタイン城を紹介します。

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