1/15 2007掲載

ルートヴィヒII世のノイシュヴァンシュタイン城_Part

 

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<<Schloβ Neuschwanstein シュロース・ノイシュヴァンシュタイン>>

 

ノイシュヴァンシュタイン城は、南ドイツを南北に縦断する、ロマンチック街道の終点にあります。ドイツでは写真のように、本道に並行して自転車道が良く整備されています。それは観光地に限ったことではなく、むしろ主要都市郊外において発達しています。交差点では自転車専用信号機も設置されています。

 

城へは麓の集落から歩いて上るか、このような馬車に乗って上ることもできます。

 

ルートヴィヒの食事の間。人間嫌い(anthropophobia)の彼は、召使いに食事を邪魔されることの無いよう、部屋の中に階下の厨房と結ぶリフトを設けました。そして彼の憧れる幻のルイ14世やマリー・アントワネットと、ひっそりと食事を楽しんだと言われます。映画「ルートヴィヒ」にもそのリフトが出てきましたね。でもこの写真ではそれがどこにあるのか、残念ながら判りません。室内はワグナーのオペラに出てくるキャラクターで埋め尽くされています。

 

 

ルートヴィヒ2世が生きた19世紀後半のドイツは、どんな時代だったのでしょう? プロイセン−オーストリア戦争でプロイセンが勝って、北ドイツが統一に一歩近づいたのが1864年。普仏戦争があってドイツが統一され、ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で戴冠式を挙げたのが1871年。イタリアが統一されたのが1861年。南北戦争でリンカーンが奴隷解放したのが1861年。同年ロシアでは賢帝アレクサンドル2世が農奴解放しましたが、その後暗殺されました。大政奉還、明治維新が1868年。イギリスでは実権が既にブルジョワジーの手に移り、産業革命で国力が大きく発展しましたが、他方1840年のアヘン戦争で香港を奪い、インド帝国を設立して帝国主義の旗頭となりました。

 

 

すぐ下にある厨房です。映画では降りてきた食卓に残っていたワインを、料理人たちがガブ飲みするシーンがありました。中央に料理台がありますが、ここから上向きに配管が出ていますね。これはこの城が誇る、当時(1886年)最新設備の給湯管です。その頃は市民の住宅はおろか、貴族の館でも蛇口からお湯は出てなかったのです。

 

お湯は銅製の水道管を伝ってこの「白鳥の洗面台」に供給されました。湯を沸かす水はというと、この城はすでにご覧になった写真にてお解りのように、小さな岩山の頂にそびえています。ということは水の確保は大きな問題でした。古来城は軍事上の必要性から孤立した山の上に立つことが多いですが、どこも大変だったでしょう。戦時に備え蓄えられたのは水ばかりではなく、ワインも蓄えられました。ワインの方が水より衛生上優れています。フランクフルト近郊にあるハイデルベルク城は今日観光で有名ですが、あの城の中には大型トラックがすっぽり入るほどの巨大なワイン樽があり、観光の目玉になっています。戦争とは関係ないノイシュヴァンシュタイン城では、約1000メートル離れた水源から水を引いています。

 

 

全体的にこの時代、ヨーロッパでは貴族階級は没落し、新興市民富裕階級が時代の支配者となってきました。ヴィスコンティの「山猫」ではイタリア・シチリア島の大貴族を主人公にして、歴史の移りゆく様がよく描かれています。バート・ランカスター扮する初老の公爵、甥のアラン・ドロン、ちょっと品のない成金の娘クラウディア・カルディナーレ、そして彼らが舞い踊る華やかな大舞踏会・・。うっとりするほど耽美的でしたね。しかし一方ではガリバルディの赤シャツ隊とナポリ王国軍の市街戦や、人々の恨みを買った男が、どさくさの中で絞首刑になるシーンもありました。

 

この絵はイタリアでの市街戦ではありません。普仏戦争でのプロシア軍とフランス軍の市街戦を描いたものです。戦争とは激しく悲惨なものでした。ルートヴィヒの弟オットーも普仏戦争で心を病んで戦線を離れました。しかしルートヴィヒは現実に目を向けず、ひたすら夢のような世界を彷徨しました。

 

夜の雪道に橇を走らせるルートヴィヒ。彼は本当にこんなことをしていたそうです。

 

 

バイエルンとプロイセンの関係はどうだったかと言うと、普墺戦争でオーストリア側について負けたバイエルンは、プロイセンに多額の賠償金を払わなければならず、その負担にあえいでいました。しかし普仏戦争では一気に和解が進みました。この絵は落馬してフランス軍に捕らわれそうになったプロイセン軍将校を、バイエルン将校が救った場面を描いた、両国友好の象徴です。

 

 

ルートヴィヒの寝室。前回紹介した執務室とそろいの、精細な木彫を施したゴシック様式の内装です。ベッドのカーテンやカバーなどの織物は、正確な数字は忘れましたが、十四、五人の織り子が二年くらいかけて編んだそうです。

 

ロマネスク風の回廊。青い列柱が美しい。

 

リンダーホーフにもあったが、ここにもルートヴィヒは洞窟(グロッテ)を作りました。くぼみ(ニッシェ)に設けた椅子に独り座し、蝋燭のともし火に照らされて、彼は何を夢想したのでしょう?

 

城の最上階、三角屋根の下は彼のための劇場です。金色に光り輝いてこそいませんが、豪華な造りです。ここに彼はワグナーを招き、彼のオペラを上演させるつもりでした。でもワグナーがこの城に来ることはありませんでした。1886年、わずか三ヶ月この城に起居した彼は、バイエルン政府の手によって身柄をミュンヘン郊外の城に移され、その翌日シュタルンベルク湖にて謎の溺死をしました。

 

 

ドイツ語圏のドイツとオーストリアにも遅ればせながら産業革命が起こり、特に1848年の革命(暴動)以降、市民階級が力を得てきました。オーストリアではフランツ・ヨーゼフ1世が即位しましたが、このころヴィーンは不要となった城壁を壊し、その跡に現在のリンク通りと、オペラ劇場などモニュメンタルな建築物を次々と造りました。これは数十年をかけた帝国首都の巨大な公共事業で、産業活性と雇用に大きな効果があったと思われます。普墺戦争には負けたものの、帝国をオーストリア・ハンガリー二重帝国に改組して民族運動を鎮め、国内を安定させました。他民族とはいえ、ドイツと違って一つの国家だったので、産業発展もドイツより少し早かったようです。ボヘミア(現在のチェコ)では精密機械工業が発達し、ボヘミア製機関銃は有名でした。スコダというこの会社は自動車も造り、これは紆余曲折を経て、現在フォルクスワーゲンの傘下に入っているはずです。ひょっとしたらGM傘下だったかもしれません。

 

 

ノイシュヴァンシュタイン城の下方に小さな城が見えます。この城は、、

 

ホーエンシュヴァンガウ城と言います。名前(シュヴァン)から解るように、この地方を白鳥郡と言い、ルートヴィヒは新城をノイシュヴァンシュタイン城と命名しました。ノイはニュー、新しいの意味です。

 

実は私は一度もこの城を訪れたことがありません。朝が遅い私はいつもここに着くのは昼頃になり、ランチを食べてノイ・・の見学(案内)をすると夕方になります。

ルートヴィヒも少年の頃何回かの夏をこの城で過ごしたそうです。城の中にはこのような読書椅子があるそうです。

 

 

ドイツでは度々言うように、小国乱立が産業発展を妨げました。しかし普仏戦争に勝利してドイツが帝国に統一され、フランスから多額の賠償金が手に入ると、一躍産業が盛んになり、栄光の時代が始まりました。1871年から第一次世界大戦の始まる1914年までを「創設の時代」といいます。これはまさに日本の明治時代(1868−1912年)にぴったり一致します。我々日本人にとって明治時代は先達が、司馬遼太郎風に言うと私を捨てて近代日本を創設した、古き良き時代であったように、ドイツ人にとっても帝国創設後の、古き良き時代でした。この時代を特徴づけるものに、俗にビーダーマイヤー調と言われる、簡素で丈夫で実用本位の家具や住居内装の様式があります。貴族階級においても古典様式と言われる、古代ギリシア風の簡素な建築様式が主流となりました。

 

さて、お城見学を終えて帰ります。緑の大木が美しい。車はもちろん右側通行。左手に冒頭説明した自転車道が見えます。柵の向こうに放牧の牛さんも。

 

今回の宿はチュービンゲンに住んでた頃の大家さんが経営しているホテル。こんな美しい保養地にあります。

 

部屋は家族向け、ロフトのある部屋を用意してくれました。

 

また来まーす。

 

 

もっとも新生ドイツ帝国は順風満帆だったわけではなく、普仏戦争勝利直後、賠償金をあてにして一旗上げようと目論んだ人々が続出し、あちらにこちらにも、雨後の竹の子のように会社が出来ました。会社の株価がどんどん吊り上げられて行く・・そしてある日あっという間に株の暴落が始まりました。まったく、過日のバブル崩壊そのままです。1871年から1873年までの2年間を「泡沫会社乱立時代」と言います。自殺、一家離散が相次いだ。その大騒動悲喜劇が収まってから、やっと本物の経済成長が始まったようです。1890年頃からはベル・エポック(美しい時代・フランス語)と呼ばれる繁栄時代が第1次世界大戦の始まるまで続きます。

 

大学生になって、また来ました。

 

こんなところに住むのもいいかもね。

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