10/18 2002掲載

haruさん

<アクエリアスの航海 〜追憶〜 加部島>

 

 春から夏にかけて、加部島先端の岬(ツイタ鼻)の緑は美しい。

 牧場の柔らかな緑に屋根の赤、灯台の白さが映える。





左は小川島。小川島と加部島との間の海峡は潮が速いのが分かる。遠く、真中にあるのが平瀬。

小川島が浮かぶ。鯨の通った海峡を眺めて牛たちは草をはむ。

 展望所。

  南の海、エメラルド・グリーンの輝き、朝焼け、夕陽などの例外はあるが、航海のとき、周囲の色彩は

  青の階調と白がほとんどである。
 海の色は海水の澄み具合、水深、太陽光線の当たり具合による青の階調、

  山々は遠近による濃淡の青の階調による輪郭線、空もまた青。
 これに雲の白さ、波の砕ける白さ、砂浜の白さ、

  遠くに山々を霞ませていくさまや空と海とが水平線で一体となっておぼろげになっていく白さなどが加わる。


  様々な色彩に彩られた陸上の生活とは趣を異にする。

 遠くに見る山々は緑ではない、青なのだ。沿岸部は暗礁の危険が伴うので、我々は、なるべく山々を遠くに見て外洋を走る。

 加部島と小川島に挟まれた海峡は非常に狭くなり、暗礁も多く、海流も早く複雑なのであるが福岡から平戸方面への最短

 コースをたどるためには陸地ぎりぎりに船を寄せて通って行く。
 青を見慣れた目には緑は柔らかく優しい。

 海上などで遠くから視認出来る色は明るい赤と白であろう。山間部を縫うように建てられている高圧電線の鉄柱や航空標識

が赤と白のコントラストで塗り分けられているのをみても、それは分かる。

 

 加部島は呼子と橋で結ばれてから様相が一変した。

この島は平野部も広く、のどかな農村の雰囲気があって以前は航海の帰り、呼子でイカを仕入れ加部島の小さな漁港に船を

 入れて捌き、静かで贅沢な食事をしていたのだが、いまはイカ料理屋が点在し、観光客も多い。

 

 この島には田島神社という格式の高い神社がある。

  祭神は田心姫命(タゴリヒメノミコト)・湍津姫命(タギツヒメノミコト)・市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)という三人のお姫様で宗像大社と同一である。

 この三人の祭神のほかに田島神社には松浦佐用姫を祀った小さな祠がある。いはば、田島神社は四人のお姫様の神社なのである。

海に面した田島神社

源頼光が寄進したとされる鳥居

田島神社由来

田島神社境内にある佐用姫神社。この床下に望夫石が安置されている。

 

 

 「佐用姫伝説」

海原の沖行く船を帰れとか

   領巾(ひれ-=布)振らしけむ松浦佐用姫

           (万葉集)

 

古くから多くの万葉の歌人たちによって詩歌によまれ、 鎌倉時代には「古今著聞集」「十

訓抄」「松浦宮物語」 室町時代には「曾我物語」に描かれ、また世阿弥は、謡曲

「松浦鏡」に、 さらに江戸時代には滝沢馬琴の「松浦佐用媛石魂録」の文筆に称え

られ、 そして今日では、羽衣の伝説、浦島太郎の伝説と並び、日本三伝説、 三悲恋

物語とされる「佐用姫伝説」。

 

宣化天皇の2年(573)、朝鮮半島での新羅の、日本府・任那侵入に際して、

那の請により、大伴金村に命じ任那に援軍を送ることとなった。 金村は、兄・磐を

筑紫防衛に、弟・狭手彦を総大将として朝鮮に送り込むこととした。

救援のため出征することになった大伴狭手彦は軍と船を整えるため、松浦の地にしばらく

留まり、ここで厳木町の長者の娘・佐用姫と恋仲になり将来を誓い合って契りを結ぶ。

恋の日々はつかのま、狭手彦は兵を率 いて任那に旅立つことになった。

別れを惜しむ佐用姫は、玄界灘を見渡す領巾振山(鏡山)に登り、遠くなっていく狭手彦の

船団に領巾を振りつづけた。領巾を振ると邪を払うと信じられていたのだ。

やがて、佐用姫は領巾振山から佐用姫岩(松浦川河口)へと飛び降り、衣干山で濡れた衣を乾かし

さらに呼子の浦まで追いかけ、ここでも狭手彦の名を呼び続け(だから呼子という)、なお遠ざかる

船を追って、佐用姫はさらに
加部島の天童山に登り船の影を探したが海原には すでに船の姿は見

えず、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣き明かし、とうとう加部島で石と化してしまった

 その石が、いま、田島神社の境内にある佐用姫神社の床下に安置されている望夫石である・・・・

 

 

  僕は、この話は本当にあった話だと思う。

 この頃の海岸線は鏡山のすそ野まで迫っていたらしい。

佐用姫が鏡山から佐用姫岩へと飛び降りて加部島の天童岳まで追いかけたということは、鏡山を

いっきに駆け下りて佐用姫岩付近で小舟と船頭を雇ったのだろう。鏡山は勾配が急なので駆け下りる

時間は短い。
 佐用姫の出身地の厳木町は松浦川(福岡市から唐津市に行くとき渡る川)の上流にあたる。

松浦川とか小舟には親しみがあったのだと思う。

現在のように交通機関が発達する以前は、川による交流は濃厚なものがあった。

 

別れ・・・

船の別れは今と昔では時間の流れがまったく違う。

 いま、船は岸壁を離れて出航していったらすぐに加速して遠ざかっていく。

 昔、風がないと帆船はどうしようもない。ただ、ただ漂っているか、潮の流れによっては押し返されるときもある。

映画で奴隷が並んで櫂を漕いでいるシーンがあるが短距離航海ならともかく長距離航海ではありえない。

 それだけの人数の居住スペース(交代を考えると櫂数の数倍の人数がいる)、水、食料を考えると長距離航海

を漕いで乗り切るのは非現実的な話である。

巨大な船では人力は無に等しい。

 

 鏡山で領巾を振っていた佐用姫は無風のため船団が遅々として一向に進まないのをみて、“まだ間に合う”

とばかりに後を追いかけたのではないだろうか。
 松浦川河口から加部島まで小舟で必死に追いかけた。

 しかし、加部島から先は外洋である。小舟では乗り越えることは困難だし、なによりも、外洋は風が吹く。

湾内にあり陸地で遮られていた風は船団を包むようになる。
 ひとたび帆が風をはらむと船は一気に加速して

みるみる遠ざかっていく。
 佐用姫は加部島で立ちすくみ、泣き崩れるしかなかった。

当時は鏡山の麓が海岸線だったらしい。出発した船団は神集島(かしわじま)をかわして

加部島の岬を過ぎて朝鮮半島に向かう。

西へ向かうとすると当時の船の性能では南風か東風でないと出発できない。

陸に囲まれた湾内では風が弱いことが多い。外洋に出ると一気に風が吹き出す。

鏡山から佐用姫岩(画面左上)まで直線距離は短い。3キロメートルくらいか。

田島神社のある入り江から北側は断崖になっており船は寄せられない。

ツイタ鼻への道もなかったのだろう。今ですら狭い小道が一本だけである。

ここまで追いかけた佐用姫はこの入り江で船を下りて天童岳に登ってツイタ鼻

の沖を通る船を見送ったのだろう。

朝鮮半島への道。釜山からは対馬の山々が見える。

狭手彦は壱岐の西を通り、図の赤丸十字付近から北上したものと思う。目的地の任那

はそこだ。

 

 鏡山で懸命に叫びながら領巾を振った佐用姫の服装はどんなであったか知る由もない。

しかし、服の色だけは分かる。上着は絶対に燃えるような緋色の衣であっただろう。

袴は・・・・白?

領巾の色は・・・・?白か、緋色か・・・・

しかし上衣は絶対に緋色だったと思う。

 

 一方、大伴狭手彦はどうであったのだろうか?

 彼は総大将である。

国家を背負い、多くの命を預かっている。私情は許されない。未知の旅路の航海では、前を見据えて行くしかなかっただろう。

佐用姫の衣の色や必死に振る領巾も見てはいまい。

佐用姫を、故郷の山々を心の中に焼き付けるしかなかっただろうと思う。

 

  やはらかに柳あをめる北上の

  岸辺目に見ゆ

  泣けとごとくに

 

僕は、啄木の歌のなかで望郷を詠んだこの歌がいちばん好きだ。

 

狭手彦は戦功をあげ、日本に帰還した。

 

青く霞む朝鮮の山々の彼方に故郷の山々の青さを感じたとき、

また、日本に帰りついたとき

そして年老いたとき、どのように佐用姫をしのんだのか、と思う。

 

 

「追憶」

♪♪ 

 星影やさしく またたくみ空を

仰ぎてさまよい 木陰を行けば

葉裏のそよぎは 思い出さそいて

澄みゆく心に しのばるる昔

ああなつかし その日

 

 

さざ波かそけく ささやく岸べ

涼風うれしく さまよい行けば

砕くる月かげ 思い出さそいて

澄みゆく心に しのばるる昔

ああなつかし その日

 前編は小川島