3/5 2004掲載

Haruさんの

アクエリアスの航海 〜馬渡島〜

 

 平戸島はカトリック教会が多い島である。

 フランシスコ・ザビエルが15498月、鹿児島に上陸、翌年には平戸で布教を始めているので歴史は古い。

 平戸大橋を渡り国道383号に沿って車で30分くらい南下すると、小道を分け入った高台に宝亀(ほうき)カトリック教会がある。

 

 この教会は1898年(明治31年)に建てられており平戸島で最も古い教会である。

 西欧の古い街並みのなかにあっても調和するこの教会が五島出身の大工・柄本庄一によって建てられたことに驚かされる。

 彼はキリスト教徒の熱心さに心打たれて
26歳で洗礼を受けたそうである。

 この教会は外国人宣教師の指導のもとに建築されたが、実物の教会を一度も見たことのない明治期の日本人が宣教師とと

 もに天主堂のイメージを一歩一歩、具体化していく過程は、まさに夢の具現化であったことだろう。

 教会正面は煉瓦が組んであるが全体的には木造建築である。

 内部は荘厳さの中にも、どこか親しみがもてる空間となっていてステンドグラスが美しい。

宝亀教会

宝亀教会内部

 

 教会敷地前の土地は畑になっており、畑に隣接する草地では鶏が放たれ、犬が遊ぶ。

 生活の中での信仰の中心ということが実感される。

 宝亀カトリック教会から、さらに車で10分ほど南下すると紐差(ひもさし)地区がある。

 紐差はカトリック教徒の多い地区で平戸のカトリック教徒のうち半数がこの地区に集中しているとのことである。

 

 紐差カトリック教会も平戸海峡に面した入江を見下ろす高台の上に優美な姿を見せている。

 この教会は鉄川与助が1929(昭和4)に完成させた教会であり、この地区に信者数の多いこともあって平戸の中でも最大の規模を誇る。

 なによりもステンドグラスを通して教会内に入り込む光は美しく、また、光の変化によってその表情を変える。

 

平戸海峡。右手遠くの岬が紐差方面

紐差教会。潮が満ちてくると水面が上る

 

教会内部の写真の時間的な差は5分もない。

冬の雨模様の日、雲の切れ間に太陽があるかなしかで、教会内部の表情はこれだけの違いがある。

春の柔らかい陽射し、夏のまばゆい光、秋の透き通った空を映すとき、どんな輝きを見せることだろう。

 

 

 紐差のこの地に最初に天主堂が建ったのは1885年(明治18年)のことである。

 それから約40年を過ぎて、昭和のはじめ、天主堂の建て替えの話が出てきたとき、同じ教会区であった、

 ある離島に旧天主堂を移築する話が持ち上がった。

 

 佐賀県の馬渡島である。

 馬渡島、“まだら島”と読む。

 この島に大陸から最初に馬が渡ってきたと伝えられている。中世から近世にかけては馬の放牧場があり、

 江戸時代には唐津藩の軍馬の放牧場だったらしい。

 九州と壱岐、対馬、朝鮮半島と繋がる海の道の間にあって比較的大きな島である。

高い山を持ち、しかもその山頂は鋭角的に尖った独特の形状であるので遠くから視認しやすい。はるか

 海洋を旅する民にとっては格好の目標の島となる。

 このため縄文、弥生以前の古くから人々の営みがあり、多くの遺物の出土している。

 

 呼子沖から見る。中央が馬渡島、左が加部島、右が松島

 

 遣隋使、遣唐使が立ち寄り、平安時代には源一族の所領となり、元寇は二度ともこの島に上陸して荒らした。

 江戸時代の寛政年間(17891800)に、長崎・黒崎村の有右衛門が弾圧と迫害に耐えかねて、子どもの勘兵

 衛ら7人を連れて田平(平戸島の対岸の町)、今福(松浦市)を経てやってきたときには、住みやすい馬渡

 島の港近くの土地(本村)には、とっくに仏教徒が住み着いていた。

有右衛門たちは急峻な坂を上り、島の奥に分け入って新村を開墾するしかなかった。

 その後、有右衛門を慕って黒崎村から多くの村人たちが移住してきた。

 黒崎村は今の長崎県外海(そとめ)町にあり隠れキリシタンの里として多くの殉教者を出し、遠藤周作が

 “転びバテレン”をテーマにした小説“沈黙”の舞台となった地区である。

 隠れキリシタンとして秘密は厳重で祈りのときには見張り番を立て、勘兵衛は終生、妻にも隠れキリシタン

 とはうち明けなかったらしい。

 この地に待望の仮聖堂が建ったのは1880年(明治13年)のことである。

 昭和の初めまで、仮聖堂で40年以上も礼拝をしてきた馬渡島の信者たちにとって紐差教会の新築に伴う旧天

 主堂の移築は嬉しい話だった。

 しかし、馬渡島のキリスト教徒には旧天主堂建材の運搬費用がなかったので、建材の船積みから運搬、上げ

 下ろし、現場までの運搬を信者の手を借りて総出で行った。

 

 僕が初めて馬渡島にヨットで行ったのは1979(昭和54)2月のことである。

 厳冬期、吹雪のなかの航海だった。

何度か島々に行くと、同じような風景と同じような行動を繰り返しているので、どの島に、いつ行ったかなどは

 記憶がおぼろげになって混同していくものだが、このときの寒さは忘れない。

 若気の至りというか・・・・僕にとっては海への熱い時代だったのだろう。

あんな寒い日は、今だったら寒いときはコタツに入ってみかんを食べている。

 

1979年当時は馬渡島の港も今ほどには整備されていなかった。

 昭和30年代の途中から始まった日本の高度成長期は離島では約20年以上、遅れてやってきた。離島の港が整備さ

 れたのは昭和
60年代に近くなってからである。

 僕が船で離島を回り始めた1975年(昭和50年)ごろは、どこの離島も粗末な船着き場しかなかった。

 港ばかりではない、道路も公共施設も民家も人々もすべてが昔の面影を残していた。

 

移築は昭和のはじめことでなので当時は満足な船着き場もなかったに違いない。僕は、どうしても船での輸送や積

 み下ろしに関心がいく。

 船着き場がなかったら不安定な船からの積み下ろしも手間がかかる。

 天主堂の建材を陸に荷揚げしても、馬渡島の港から現在の教会の場所までは坂道が続く。

 そこを彼らは手に手に古材を持ち、肩に担いで運んでいった。すべて人力で運んだとのことである。

 

僕は港から天主堂までその道を歩いた。交通機関などないので歩くしか方法はない。

 行き交う人はほとんどいなかったが、坂を登るに従い海への景色がだんだんと広がり、汗ばんでくる。

その昔、列をなして歩く彼らの高揚した想い、喜び、汗が感じられる。

 

 1929年(昭和4年)に移築が完了し、この地に天主堂が建った。

 

馬渡島天主堂

馬渡島天主堂内部

 

 キリスト教信者たちは、ひところは隆盛をきわめ、この地区には信者の師弟だけの小学校、中学校もあった。

いま、天主堂の建つ新村地区を歩くとひっそりとして廃屋が目立つ。

過疎はクリスチャンや仏教徒とか分け隔てなくやってくる。

進取の精神に富んだ馬渡島のクリスチャンは、戦後、多くの人々がブラジルへと旅だって行き、ブラジルに

 馬渡村をつくったとも聞いた。

あの移築の日々から既に80年近くの年月が経つ。

天主堂の建材を手に持ち、肩に担いで坂を登った人々もこの地を去り、また、多くは世を去っていった。

白い天主堂はこの地に残る。

 

馬渡島天主堂の横にはキリスト教徒の墓地がある

 

 

 

信者たちの多くは、この墓地に眠る。

天主堂の移築に汗を流した人々の多くも熱い思いを抱いて静かに眠る。

熱いときはそんなに永くは続かない。いつかは想い出となり、やがてはそれすらおぼろげになっていくのが普通だ。

花々を手向けられ、朝な夕なに祈りの声と教会の鐘を聞き、生きてきた証をすぐそばで感じることができる彼らは幸せなのだろう。

 

In  my  life (レノン=マッカートニー)

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 With lovers and friends I still can recall

  Some are dead and some are living

  In my life I've loved them all

 

 

平戸島から馬渡島方面の写真。

左手、空と海のはざまにかすかに馬渡島が見える。

天主堂はこの海を越えて渡っていった。


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