5/29 2002掲載
大峯奥駈修行サポートの旅
by 森脇久雄
A奥駈前夜祭と初日
愛しの宝塚歌劇よ!と今日の公演の余韻に浸りながら車を走らせ続けた私ですが、西
名阪を降り、高田バイパスに入って二上山のすぐそばを走るころにはもう気分は大峯
修験道モードに切り替わってました。
高速道路の威力、宝塚を出てからたった1時間30分で橿原市に入ります。小田知道
さん宅に電話で後10分以内に到着、と知らせた直後に6時過ぎになる、と言ってい
たM.リエさんから電話が入り、今橿原神宮前駅に着いたとのこと。急遽、リエさん
を先に迎えに行くことにして10分後には橿原神宮前駅で彼女を拾います。彼女とは2
月の単なる飲み会以来。
「お仕事からそのまま直行されたのですか?」と私のスーツ姿を見て彼女が言うので
「ノンノン、宝塚歌劇場から直行だよ」と答えると「え!また観に行ったのですか?
プラハの春でしょう?」と私がプラハの春に深く感動したことを知っている彼女は叫
ぶのでした。
「そんなに良かったのなら私も観たかったなぁ。いつまででしたけ?」
「5月20日」
「奥駈の終わった翌日かぁ、とても無理だな・・・」
彼女は諦めました。
小田さん宅に上がりこんでスーツを山行きの服に着替え、荷物を小田さんのワゴン車
に移して6時20分、出発しました。
15分後に大淀町の蕎麦屋「まるいち」の駐車場で辻田友紀さんと待ち合わせ、彼の車
はここの駐車場に置いて我々のワゴン車に合流してもらうのです。いつもならここで
食事をして出発するのですが、今日はまるいちの定休日。リエさんが去年、一泊のお
世話になった「まるいち」の芳谷夫妻にお土産を持参していたので芳谷さん宅までそ
れを届けに行ったところ、芳谷家ではガレージでバーベキューを楽しんでいる最中で
して、わざわざ届けに来たことに対してご夫妻とお母様が大変恐縮され、しきりに一
緒に食事していくように勧めるのですが、修行を前に精進している小田、辻田の両氏
は肉食ができないので丁重にお断りして辞し、別の蕎麦屋で夕食を済ませました。
奥駈という大変な山岳歩行を明日に控えていると言うのに、小田、辻田のご両人はザ
ル蕎麦の大盛りのみしか食べず、お腹をひどくこわしているというリエさんはとろろ
蕎麦だけ、サポーターの私のみが天麩羅定食を食し、運転しなくても良いので一人お
酒を2合も飲みました。
食後、コンビニによって明朝の朝食代わりにお結びやパン、そして私は日本酒の一升
パックを購入し、一路、十津川村を目指します。
温泉地(とうせんじ)温泉
十津川村に入って温泉地温泉に浸かっていきました。写真を写せなかったのでインタ
ーネットで借用したものですが、ここの狭いながらも谷間に面した屋外の露天風呂の
素晴らしい雰囲気を解っていただけるでしょうか。
午後10時過ぎ、玉置山頂上駐車場に到着。
リエさん用のねぐらをワゴン車の中にしつらえ、我々のねぐらであるテントも設営し
て、
雨も止んだ外で宴会を始めます。
と言っても小田さんは1年前から禁酒しており、辻田さんは元々酒を飲まず、お腹の
調子が万全でないリエさんは明日の奥駈が不安なので、とほとんど飲まず、私一人が
飲んでるだけですが、それでも皆さんの会話は弾みました。
12時にお開きとし、就寝につきました。
翌朝、5時半に起きてみると吹田市から藤本さん、宗実(むねざね)さんご夫婦がお
られました。我々が寝た後に到着し、同じく野営されたそうです。
藤本さん(写真左端)は大阪空港の重要な職につかれた方で、2年前に初参加されて
以来、欠かすことなく毎回奥駈に参加されております。
宗実夫人、慶子さんは50年前の学生時代に女性だけのパーティを編成してその隊長
となり、ヒマラヤ遠征に行った方です。本来なら日本最初の女子だけのパーティによ
るヒマラヤ遠征隊となるのですが、チョモランマなどの有名な山からかなり離れたと
ころのヒマラヤだったためにそれほど話題にならなかったとのこと。その栄誉は田部
井さんに行ったことは周知ですね。
このご夫妻の結婚のとき、両親がいなかった宗実夫人の親代わりとして出席してくれ
たのが「日本百名山」の著者・深田久弥氏だそうで、ひたむきな女流登山家の宗実さ
んを娘のように可愛がられたのでしょうね。
この話はこの3人をここまで送ってきた藤井さんからお聞きしました。藤井さんも百
名山を全部踏破した登山家ですが、今回は用事があって奥駈に参加できず、仲間たち
を送り迎えすることだけのために高槻市から熊野を往復されるのです。
熊野修験団に参加する人たちはこのような互助精神の旺盛な人が多いようです。
玉置神社に参拝したいとリエさんが願うので徒歩8分ほどのところにある玉置神社本
殿まで行きます。霧のただよう杉の巨木の中を歩くのは幻想的で神々しいものがあり
ます。相変わらず長い瞑目をするリエさんでした。
7時前後から続々と奥駈参加者が到着いたします。
7時半、隊列を組んで結団式をやります。メンバーの中には遠く千葉や新潟から参加
の方もいます。
熊野修験団総帥、那智青岸渡寺副住職の高木亮英師(53歳)
数々の荒行をやってきたとは思えないような温厚な風貌に謙虚なお人柄ゆえにみんな
から「亮英さん、亮英さん」と呼びかけられるほど親しみを持たれるのですが、峰中
の修行中には「亮英さんではなく、導師と呼ぶように」と私は先達のとき、ことある
ごとに皆さんに言い続けてきたものでした。
先達の中でも重要な役割を担う3人衆です。
左から峰中総奉行を務め、導師の右腕とでも言うべき立場の生熊青龍氏、法螺作法を
統括し、体調不良者の峰中におけるサポート役を任じる小田知道氏、歩行のペースを
先導する先頭先達の花井淳也氏。
5月9日の朝日新聞朝刊の和歌山版に掲載された記事です。
峰中の歩行における注意事項や作法などの説明、自己紹介も終わり、出発の法螺貝の
音と共に奥駈隊は出発し、玉置山頂を目指して樹林の中に入って行きます。サポート
隊も山頂まで供をします。
第10番目の靡き、玉置山頂での勤行。
リエさんが両腕で捧げているのは碑伝(ひで)の束で、碑伝とは梵字を記して修験団
の名を記入し、峰中にある各行場(靡きという)に入峰の記録として一つ一つ置いて
いく塔婆型の板です。
私が初めて先頭先達をやったときに余ったものを譲り受けてきた碑伝です。
記念撮影をした後に、ここから奥駈隊を二組に分けます。
今夜の宿舎、行仙宿小屋が40人しか宿泊できず、健脚者には行仙宿より4時間先の
ところにある持経宿小屋まで行ってもらうため、二手に分けて健脚組みには早い歩行
で行ってもらうのです。
健脚組み16名が先発していきます。率いるは赤坂先達。
写真左の生熊先達は熊野修験団一の韋駄天です。
真ん中の青いカッパを着ているのは東京在のデザイナー、中山氏。熊野修験のポスタ
ーは彼がデザインしました。彼もここ4年間、毎年欠かさずに参加しております。
後発組37名は花井先達が率います。初参加者もおり、体力にばらつきのある人たち
を9時間の尾根歩きに導くのですからその気の使い方は大変なものがあります。
2番目に歩く根木さんは71歳。
「あんたに励まされて熊野修験団に入ったのに、わしよりずっと若いあんたが何故先
にやめるのや」と千年檜祠落慶法要のときにぼやかれました。
駐車場への道と奥駈道との分岐に来ました。サポート隊はここで別れて私を除く他の
人たちは駐車場から下山します。
玉置山の尾根の上を走る林道から見る風景。千メートル近くの標高です。
他のサポーターたちと別れた私は一人ハイエースを走らせて奥駈尾根に沿った林道を
北に向かって行きます。
奥駈隊は樹林の山道から何度かこの林道に降りてまた山道に入っていくことを繰り返
すのですが、一番遠くの花折塚近くの林道まで先回りして彼らを待ちます。
花折塚近くの林道にハイエースを停めてしばらく横になって休もう、と思っていたら
何と、15分にして先発隊がやってきました。私の予測をはるかに上回るほどのかなり
の速さであり、皆、私に会釈しながらも無言でザッ、ザッ、ザッ、ザッと歩き去って
行きます。
これはおちおち寝てはおられんな、と思った私は後発隊一行が林道に出てくるところ
を写真に撮ろうと思って樹林帯入り口で待ち受けていると、彼らは25分後にやって
きました。
樹林の中に入っていく後発隊。
この後、林道に出ることなく彼らは険しい大峯山中を9時間も歩行していくのです。
彼らを見送った後、私は今夜の持経宿小屋での接待をするために新宮からやってくる
メンバーたちと合流するため、待ち合わせ場所の白谷林道分岐まで行きます。(続く)