1/6 2004掲載

「バングラデシュ紀行-麗しのダッカ(そのT)」 渡辺耕士

 ある事情で愚息がバングラデシュにいるものですから、この正月に
家内と行って来ました。バングラデシュの印象は次の言葉に集約できます。
「埃と喧噪」「寒さと下痢」「貧しいながらもエネルギッシュ」。
 日本の本州と同じくらいの面積に約1億3,000万人の人たちがおしくら饅頭を
しながら生きている国でした。
 出発前は一応現地の様子を「セーターが必要だよ」とメールで教えてもらい、
薄いセーター一枚とあとはすっかりの夏支度で出かけましたが、これが大間違い。
何年ぶりかの寒波が押し寄せ、とても亜熱帯の国とは思えない寒さの毎日でした。
路上生活者は日本と違い寒さに対しての備えがありませんから、何人かの死者
が出たそうです。彼らはただ文字通り着のみ着のまま路上や公園の芝生に寝るだけ
ですから、これに比べると上野のブルーのビニールシートや段ボールで作られた
あの日本のホームレスの「住まい」は彼らからみれば「御殿」のように思えるでしょ
う。
なんと贅沢な!と叱られます、きっと。
 着いた日は愚息の大学の寮に泊まりましたが、勿論「お湯」「暖房」
なんてものはどこにもありません。おまけにトイレットペーパーを使う習慣が
ありませんから、文字通り左手での「水洗」です。冷たい水で洗いながらすこしだけ
みじめな気持ちになりました。
 部屋は床、壁、天井がコンクリート(漆喰)です。天井が夏の暑さ対策のため
やけに高く、それぞれが4〜5Mあります。一言で言うと大きなサイコロの中で暮ら
す気分でした。
部屋の中は粗末な木のベッドが一つと、年代物の木の机が一つだけであとは何も
ありません。実にさっぱりとしたものです。
ただ壁の所に木の枝にいろいろぶら下げたものがありましたので、濡れたタオルを
かけようとしたら、倅にしかられました。こちらの友人が作った「芸術品」なんだ
そうです。
ぶら下がったものをよく見ると、なんと赤や黒で塗った手榴弾(勿論おもちゃ)や
パソコンのマウスでした。
 小生子供の頃から、絵画、彫刻、前衛作品にはなかなかなじめず劣等感を
持っておりましたがこの「芸術品」を見て少し自信が付きました。
 
 翌日はダッカ市内見物です。
街には人が溢れ(失業率は当たり前ですが日本の比ではありません)
リキシャ(日本の人力車がなまった言葉だそうです。自転車で引く二人乗りの
簡易タクシー)が溢れ、車が溢れ、バスが溢れていました。
丁度渋谷のセンター街のスクランブル交差点の人混みの中に、首都高速の
渋滞の車をそのままぶちまけた状態を想像して頂ければ結構です。
 そしてそれらの人が一斉にベル、クラクション、大声で「俺が先だ」と主張する
ものですから、その喧噪ぶりは想像を絶します。
信号は市内に何カ所かありますが、勿論そんなものは誰も見向きもしません。
大きな交差点では警官が5〜6人がかりで整理しますがなかなか混雑は収まり
ません。
基本的には強い者(バス)が弱い者(リキシャ、人間)を押しのけて前に進もうと
するわけですが、そのバス同士も割り込みがあるため運転手の口論が絶えません。
一度は目の前で割り込まれた運転手が頭に来て、バスの横腹にどんと体当たりを
ぶちかますのを見ました。
日本でしたら、すぐ「事故証明だ」「保険会社だ」となるところですが、こちらでは
そんなこと運転手もお客も誰も気にしません。
 そのためこちらでは、ぴかぴかに磨いた車は全くと言って良いほどありません。
みんなボディーにはたくさんの傷を持つ歴戦の勇士達ばかりで実にたくましい姿
でした。
「車とは目的地に早く着くための道具だ。人に負けてなるものか」という哲学が深く
浸透していることを肌で感じました。

 旧ダッカ市内はあまりの混雑でリキシャも前に進みませんから歩くことにしま
したが、気をつけていないと突き飛ばされそうになります。
おまけに狭い道の両側には「どぶ」があり踏み外したら一巻の終わりです
(勿論ふたなんかありません)。
ダッカ市内には「公衆便所」が数カ所しかありませんから、何が流れているかは
すぐお分かりになると思います。
 
翌日は、仏教遺跡があるクミーラと言う名前の町に行きました。
 途中第二次大戦の戦没者慰霊墓地の中に旧日本兵のお墓があると聞き
ましたので、そこにお参りに行きました。墓地の一番奥に20数基のお墓
(日本式ではなく西洋式の地面に埋めた墓石に名前と戦没日を刻んだもの)
がきちんと清掃されて静かに眠っていました。戦没日から考えて、
あの悪名高いインパール作戦で戦死またはその後の捕虜収容所で戦病死
された兵士の方々のお墓と考えられます。享年を見ると23才、25才・・・とあり
その故郷に帰りたかったであろう心の叫びに粛然とした気持ちになりました。
合掌と黙祷を捧げていましたら、バングラデシュの4〜5人の学生が近寄って、
「あなた方は戦死した兵士達の親類か」と質問してきましたので、「親類でも
なんでもない。同じ日本人というつながりだけだ」と答えると中の一人が
深くうなずいていました。
我々日本人の先輩に対する心のあり方をいささかでも伝えることが
できたようで、小生も気持ちが落ち着きました。

少し長くなりましたので「麗しのダッカ-U」はこの次に。
では又・・・

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