第二次大戦の戦禍で沈没した日本郵船の主な貨客船  (「二引の旗のもとに」から転載)

・各船は沈没した年月順で記されてます。
・一読して判るように統一した表記でないのは、船の戦没の報が入る度に記録された日本郵船の
元資料をそのまま転用しているためだろうと思われます。
  →前半は詳しく記されているのに後半の、特に太平洋の女王と言われた浅間丸の記述が簡略
※2番目の平洋丸はこの一覧に載っていなかったのですが、私の判断で加えました。

大洋丸(船長原田敬助・乗員263人)
 陸軍配当船として昭和17年5月8日、南方開発要員1094人を乗せて男女群島女島灯台付近を
航行中、潜水艦の攻撃を受け、積荷のカーバイドに引火して全船火だるまとなり、数十分で沈没し
た。乗客660人、船長以下乗組員157人が殉職。原田船長は乗組員を指揮して最後まで乗客の
救助に努め、君が代を唱えながら船と運命をともにした。

平洋丸(乗員114名)
軍属1753名、南方慰問団11名の計1878名と食糧や武器弾薬4000トンを乗せてトラック島を目指し
て横須賀を出港したがサイパンを過ぎたあたりで潜水艦の雷撃を受け、沈没。記録に残っている
中では大東亜戦争中、最も多くの魚雷を受けて撃沈された商船で、乗員乗客の退船中にさらなる
雷攻撃が無かったらもっと多くの人命が救われたはず。
詳細

竜田丸(船長木村庄平・乗員198人)
海軍御用船として18年2月8日、将兵および工作員多数を乗せ横須賀から南下中、伊豆御蔵島
東方で潜水艦の雷撃にあい数分間で沈没した。便乗者、乗組員とも一人の生存者もなかった。

鎌倉丸(船長栗田達也・乗員201人)
海軍御用船として18年4月18日、将兵および民間人多数を乗せてパリクパパンへ向かう途中、
潜水艦の発した魚雷2本を受けて沈没した。船長以下173人が殉職。

富士丸(船長吉山求馬)
基驕`神戸間定期船として18年10月27日、船客936人を乗せて航行中、奄美大島西方で
2発の魚雷を受けた。総員退船後、数分にして沈没。船客50人、乗組員3人が死亡および行方不
明となる。

日枝丸 
海軍に徴用されて特集潜水母艦となり、18年11月17日、ラバウル西方で潜水艦攻撃を受けて
沈没。

靖国丸
海軍に徴用されて特集潜水母艦となり、19年1月31日、多数の兵員を乗せてトラック島に向かう
途中、雷撃を受けて沈没。

三池丸(船長斎藤敏夫)
陸軍ご用船として19年4月27日、引き上げ邦人、遭難船員、船砲隊員ら1007人を乗せてパラオ
から帰国中、魚雷2発が命中して火災を起こしまもなく沈没。乗客、船砲隊員18人と乗組員2人が
死亡、他は救助された。

白山丸(船長草野清次)
海軍ご用船として19年6月4日、軍人、軍属ら446人、警戒隊員69人、計515人を乗せ、船艇に
護衛されて船団航行中、硫黄島西方で潜水艦攻撃を受けて沈没。多数の便乗者のほか乗組員
23人が殉職した。

安芸丸(船長山田豊吉)
陸軍御用船として19年7月26日、マニラから宇品へ航行中、ルソン島西北方で数発の魚雷を受
けて沈没。便乗者と船砲隊員若干名と乗組員3人の犠牲者を出した。

浅間丸(船長阿川亮三郎)
海軍御用船として19年12月1日、マニラから高雄向け航行中、バシー海峡で前後2回にわたり
潜水艦攻撃を受け、攻撃後10分で沈没。多数の便乗者および乗組員99人が殉職した。

阿波丸(船長浜田松太郎・乗員144人)
船舶運営会の運航船として香港、シンガポールの連合虞捕虜および抑留者向けの救助品輸送の
ため、20年2月17日門司を出帆、香港をへてシンガポールに至り、救助物資を荷揚げしたのち邦
人官吏80人、遭難船の船員2000人、引き揚げ邦人50人の計2130人を乗せて日本向け帰航
中、4月1日台湾海峡で潜水艦攻撃を受け、4発の魚雷が命中して瞬時に沈没。
司厨員1人が奇跡的に助かったほかは、乗客、乗組員の全員が船と運命をともにした。船の遭難
では、北大西洋で氷山に衝突して沈没し、1500余人の犠牲者を出したタイタニック号(1912年)を
上回る大惨事であった。同船の配船は、連合国側からあらかじめ航海安全保証をを取得し、規定の
標識、夜間の照明など完全であった。同船襲撃は全く米国側の過失に基づくもので、無警告で撃沈
した潜水艦のフランクリン艦長の行為については、米国側も日本政府の抗議に対してその過失を認
め、戦争終結後に公正な損害賠償をする旨回答があった。
ところが戦後の24年4月、国会は占領軍がわが国の復興に尽くして援助に感謝の意を表するため、
阿波丸事件に関するすべての請求権放棄を議決、多数の犠牲者遺族にとって歯切れの悪い結果
となった。