新宮山彦ぐるーぷ創立40周年祝賀会   by リワキーノ  2016.05.12

本来は一昨年が山彦創立40周年だったのですが、祝賀会を予定してた直前に玉岡憲明
代表(現在相談役)が体調を大幅に崩され、延期となっていたのを持経宿山小屋改築竣工
事が完成したことと、玉岡さんが緑綬褒章を受賞したのを記念するのと一緒に遅ればせな
がら昨年11月に40周年の祝賀会を催すことになったのです。

私にとって忘れがたいのは我が妹分、カツラさん親子とこの祝賀会の二日間を共にした
ことでした。
私が如何に彼女の子供が特別な存在であるかは下記のページをご参照ください。
http://hmpiano.net/riwakino/2013/13.11.26katsura_baby/newpage1.html

JR東寝屋川駅でルーメイさんと待ち合わせて私の車で一路和歌山市のカツラさん宅を
目指し、そこで東京からやってきたfuruyamaさんも含めて私たち5人は祝賀会場の那智
勝浦町のホテル浦島に向かいました。
途中のサービスエリアでのスナップ。

左からfuruyamaさん、ルーメイさん、カツラさん親子

カツラジュニアは人見知りするところがあるそうですが、嬉しいことに私にはなついてくれ、
抱っこもしても嫌がりませんでした。
動画は画面下方右端の拡大アイコンをクリックしたら大きくなります。


祝賀会には山彦に関係する人たちが全国から115名集まり、記念写真も2回に分けて撮り
ました。




来賓の挨拶のときのカツラさん親子です。


このあと、天台宗寺門派園城寺(三井寺)所属の山伏、吉開さんの祝い法螺の披露。
山彦の行事にはいつも福岡県柳川市から駆けつけてくださいます。
大峰修験道の荒行の修験者です。


そして同じく三井寺所属の山伏にして居合抜きの達人である佐々木さんの居合抜きの披露。
居合抜きと言うと目にもとまらぬ早さで抜刀し、すぐに鞘におさめる光景を想像されやすい
ですが、佐々木さんの流派は抜刀して鞘へ収めるまでの剣さばきの間の立ち居振る舞い
を重視するもののようで、能楽師や舞の名手のようなぶれの無い動作は美しく、長い年月
の鍛錬の賜物ではないかと思われます。
社交ダンスをやった者だったらぶれの無い動作、足の運びを続けるのが如何に難しいか
が判ります。


この後に宴会が始まるのですが、宴会半ばにおいて「熊野水軍太鼓」という和太鼓グルー
プの演奏が披露されました。
これは川島会長の縁故で実現したのです。
団員すべてが職業を持った一般社会人。
熊野の地方自治体の援助を受けての活動ですが、その演奏は素晴らしいものであり、熊野
水軍の後胤たることを彷彿とさせる雄々しい益荒男と早乙女ぶりを発揮する演奏でした。


どうです?この凜々しい顔をした熊野水軍太鼓の人たち。演奏と言い、私の尋ねごとへの
丁寧な対応と言い、惚れ惚れしましたね。熊野人を代表する面々と思いました。
撮った動画のYouTubeへのアップも快く承諾してくれました。


全部の演奏は下記をご覧ください。


女性の踊りや、女性陣、男性陣のにわか合唱団ならぬ斉唱団の歌もなされます。





右側の白いシャツを着た青年は現職の自衛隊員です。
玉岡さんに惚れ込んで新宮山彦ぐるーぷに入隊したとか。

そして私が深い感銘を受けたのが、新宮山彦ぐるーぷの重鎮である東さんの歌唱披露で
した。
実は半年前の新宮山彦ぐるーぷの催しを急にレポートしたくなったのはこの東さんのエピ
ソードを今回の集まりに来られなかった多くの山彦のメンバーに知って欲しい気持ちが働
いたからです。

謡が得意な東さんのこと、謡を披露されるのかと思ったら、山彦の今は亡き古いメンバー
の小田七郎さんの名を挙げ、今宵小田さんがこの場に居合わせたらきっと歌ったに違い
ないと小田さんの愛唱歌「上海航路」を歌われたのです。

小田七郎さんは明治以来廃れていた熊野修験が復興されてから最初の北部大峰の奥
駈を挙行したときの数少ないメンバー(高木亮英師、山上皓一朗、小田七郎、松本良、リ
ワキーノ)の1人で、山彦の行事や団体登山でもしばしば私もご一緒し、日本酒の大好き
な七郎さんの個性的なキャラクターに強い共感を抱き、親しみを感じた人でした。

引退された後に父親の意志を継いで熊野修験に参加された子息の敏郎さんと私は義兄
弟のちぎりを交わし、新宮市の七郎さん宅で3人で酒を酌み交わし、私と敏郎さんが盛り
上がっている間に七郎さんが二階の座敷に3人分の寝床を用意して3人枕を並べて寝た
ことは、既に父親を失っていた私には久しぶりに親父の愛情を感じられる忘れがたい想い
出となっております。
その小田七郎さんのことを、記念すべき山彦の創立40周年の席で思い起こさせてくださっ
た東さんには深い感謝と敬意を抱きます。

ちなみに東さんは山彦の古いメンバーの中では「鬼の玉岡、仏の東」と呼ばれた御仁です。
行動力あふれ、人使いも荒かった玉岡さんに対して常に補佐役に徹していて、様々な面
でフォローしてきた温厚な東さんを表した言葉でした。




ここから当日の参加者のスナップを紹介します。


玉岡相談役(91歳)を囲んで。
玉岡さんについてはここで語る必要がないほど、今までに多くの人たちから顕彰されてき
ています。
大峯を含む紀伊半島の山々の登山記録、大峯修験道の廃れた奥駈の道の復興や各修
験団の奥駈修行への新宮山彦ぐるーぷを率いてのサポートをしてきた玉岡さんの貢献は
世界文化遺産である大峯の奥駈道のことが語り続けられる限り、触れられることと思います。
左隣は平田さん。数多くの大峯登山を一緒しました。
両端はタカハシ姉妹。私が熊野修験団の先達を務めていたころに一緒に大峯奥駈の道
を歩いてくれた古くからの仲間です。
お姉ちゃん(左)が私より一つ年上、妹が私より一つ年下。私の年を知る人はお二人が若い!
と思われるでしょう?


Sibataさん(左)と沖崎さん。沖崎さんは新宮山彦ぐるーぷの事務局長のような立場にいる
人で、このホテル浦島での宴会も彼の顔と努力で随分と便宜をはかってもらえました。
ルーメイさんの隣はodagiriさん。Sibataさんと共に東京から来ました。


furuyamaさんもShibataさんも私と同じく、カツラジュニアの誕生を待望しておりましたから
可愛くて仕方ない様子です。


右側は私が何でも甘えることのできるアニキ分の松本良さんとその奥様


豊島さん。80代になっても現役の登山家で日本アルプスにも頻繁に行ってます。
この二人は雪山登山もこなせる熟練の登山家です。


左から玉置さん、福島県郡山市から来た佐藤さん、一人おいて山上夫人。右端は私の知
らない人です。


生熊夫妻。このお二人も古くからの山彦の仲間。山彦の行事や熊野修験奥駈のサポート
を一緒にやったものでした。
「今日はKO-BUNさんは来てないのですね。また関西支部の皆さんと集まりたいです」と
言われますが、現在関西支部は自然消滅状態


イガシキさんご一家。
神奈川県在住なのに山彦の行事にはたいてい来られているようです。
娘さんは6年前の箱根における山彦ぐるーぷ創立35周年祝賀会でフラフープの演技を見
せてくれましたが、それは素晴らしいものでした。
当時独身だった彼女も今は二児の母親ですが、今も娘さんのように若々しく、明るい方です。


宴もたけなわとなったころにルーメイさん主導の集団ダンスとなります。
舞台の上から皆さんに教えた簡単な手振り、身振りを教え、それを一緒に踊ってもらうわ
けです。



カツラジュニアもイガシキさんのお孫さんも一緒に踊ってくれました。


舞台から降りてみんなの踊りの輪に入っていきます。





宴は終わり二次会もありました。そのときのスナップです。


左端が「上海航路」を歌った東さん(89歳)です。


右端は山上さん(87歳)。玉岡、東、山上は新宮山彦ぐるーぷの三羽がらすと言われてま
した。私にとっては兄貴というべきか、叔父貴というべきか迷うくらい、心から崇敬し、親し
みを感じる御仁です。
初めてお会いしたときから心筋梗塞という心臓病を抱えておられたので、私は山上さんと
出会って別れるときは、いつもこれが今生のお別れになるのではという思いを抱くのです
が、有り難いことに30年間、それは実現せずに今日に至りました。
この前、「心筋梗塞って病名、医者の誤診と違いますか?心筋梗塞で86歳まで生きられま
せんよ」と言うと「そうかも知れんな。単なる不整脈かも」と答えられます。


山上夫人。
80代になられても本当にお若い。若き日にミス新宮に選ばれた女性です。
私にとっては新宮山彦ぐるーぷのマドンナ的存在であり、憧れの女性です。
山彦の人たちは皆年齢よりも若々しいです。

翌日のホテルから見た熊野灘です。


右側の洞窟の穴のところが洞窟を掘って作られた忘帰洞(ぼうきどう)の湯です。
前回は入ったのですが、今回はパス。何しろ、部屋から徒歩10分もかかるのです。
ホテル浦島はとにかく巨大です。
(ネットから画像借用)


朝食の席でfuruyamaさんが「昨夜はカツラさん親子と川の字になって寝られて夢のように
幸せな体験でした」と言われましたが、わかる、わかる、許されるものなら私も一緒に四の
川の字になって寝たかった、と思いました。(山小屋では可能なんですがね)


熊野修験の巡礼に旅立つfuruyamaさんを見送るカツラジュニア。
(画像はカツラさん提供)

紀伊勝浦駅で東京にもどるShibataさんとodagiriさん、青岸渡寺の高木導師夫人と待ち合
わせているfuruyamaさんたちとはここで別れ、私とカツラさん親子、ルーメイさん、それに来
るときは電車できた平田さんは私の車で和歌山そして大阪をを目指したのでした。

*祝賀会の画像は一部を除いて新宮山彦ぐるーぷ会長・川島功氏提供。