NHK大河ドラマ「源義経」 2021.09.12
先月TSUTAYAディスカスでNHK大河ドラマ「平清盛」全巻を借りたときに、おまけとして同じ大河ドラマ
「源義経」の総集編・後半を借りられたのです。
1966年(昭和41年)に放映されたもので、ちょうど私が高校を卒業してピアノ調律師の研修を受けに浜
松に行った年でした。
もう55年も前のことです。
寮生活だったのですが日曜日には食堂で仲間たちと一緒にこの大河ドラマを見たため、大変懐かしく
感じると共に思い入れのある場面のカットを紹介しながら私の思いをお伝えしたいと思います。
ただ、DVDの画面でも断り書きがありましたが、元のフィルムの劣化が進んでいてかなり鮮明さに欠け
る画像なので見苦しい面があること、そして総集編・後半なので頼朝と不和になった義経が都落ちをし
ていくシーンから始まり、戦で義経が活躍するシーンは無いことはご承知おきください。
源義経役の尾上菊之助(現・7代尾上菊五郎)
さすがに歌舞伎役者。平安時代の凜々しい武将の役柄にぴったりですね。
吉野山における静御前(藤純子)との別れのシーン。
鎌倉幕府の公記録である吾妻鏡の記述によれば、静御前が捕らえられたことから義経一行が吉野山
へ逃げて行ったことは判明したのですが、それ以降の消息は奥州平泉に出現するまでまったく判らなか
ったそうです。
吉野山から大峯に深く分け入って逃亡する義経一行。
大峯の沢を渡る様子。
我々熊野修験団の画像とダブらせたくなります。
山伏装束に変装して逃げることを決めたとき、義経が変装を見破られるのではないかという心配をした
ことが『義経記』に載っているのですが、そのことを知った私が「大峯奥駈縦走記」の中で触れておりま
すので、ご興味ある方は下記のページをご覧ください。
「大峯奥駈道縦走記」より抜粋
一方、静御前は鎌倉に連れて行かれたとき、白拍子として有名であったため、頼朝の命により舞を舞う
ことを命じられます。
鶴岡八幡宮で頼朝夫妻や鎌倉御家人たち大勢の前で舞をする静御前。
御家人の中でも知勇兼備・清廉潔白として鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠が銅拍子を打つ役目を
受け持ちます。
小鼓の役を受け持つのは工藤祐経(すけつね)。
この工藤祐経は小鼓の名手だったようで、捕らえられて鎌倉に護送された平重衡(しげひら)が幽閉先
で頼朝の好意で宴のもてなしを受けるときに重衡の笛に祐経が鼓を受け持つという役割を頼朝から命
じられています。そのときに琵琶を受け持った藤原邦通は有職故実に広く通じた教養人ですが、重衡の
ことを「芸能、言動ともにとても優れた方でした」と頼朝に報告しています。(ウイキペディア記述)
このとき頼朝の命で重衡の身の回りの世話をした千手の前が舞を舞うのですが、ここらのシーンは平家
物語の「千手の前」の章で詳しく描かれており、後の二人の運命を思うと何度読んでも胸を打たれるシ
ーンです。
大河ドラマ「平清盛」でこのシーンが出てこなかったことが残念で残念で仕方無かったです。
だいたい、このドラマでは重衡のことをひどく軽く扱っています。
工藤祐経は後に親の仇として曾我兄弟に討ち取られます。
畠山重忠も北条氏の謀略によって一族もろとも滅ぼされます。
静御前の舞いは、恋人の義経と同じく、悲劇的死をとげた二人の有名な鎌倉御家人たちの伴奏が伴わ
れたことも後生の人に感慨深いものを与えます。
頼朝(芥川比呂志)と妻の北条政子(大塚道子)。
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」(昔を今に戻す方法はないものか)
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
静御前が舞ながら歌うのを聞いて頼朝が不機嫌になるのを北条政子が「あなたが石橋山の戦で行方
不明になったとき、私はひどく辛く悲しい思いをしました。静御前も愛する人を思う気持ちは私と一緒で
あり、その心情が哀れです」と取りなすのです。
大河ドラマ「平清盛」ではこの静御前のエピソードは出てきませんでした。
北陸まで落ち延びた義経一行は安宅の関に着きます。
正面は武蔵坊弁慶(緒形拳)。
義経の扮装を怪しいと思われ、義経だけを残して立ち去るようにという関守の言葉に「いつも我々一行
の足を引っ張るおのれは!」と激高したふりをして弁慶が杖で何度も何度も義経を叩き伏せるのです。
『平家物語』にも『源平盛衰記』にもこの記述はなく、『義経記』のみに記されているできごとで、おそらく
架空のエピソードと思われますが、歌舞伎の「勧進帳」や能の「安宅」で広く知られており、多くの人の
涙を誘うエピソードです。
弁慶の心情に胸を打たれた関守、富樫泰家(大友柳太郎)は一行を全員そのまま通らせます。
関所が見えなくなったところまで来た一行は素早く振り返って富樫泰家への深い謝辞をこめてお辞儀し、
すぐさま立ち去るシーンは胸を打たれるものがあります。
安全なところまでたどり着いたところで打擲したことを涙ながらに詫びる弁慶を慰める義経。
奥州平泉に無事にたどり着いた義経一行ですが、庇護者の藤原秀衡が死去したあと、鎌倉の追討を
恐れた息子の泰衡の襲撃を受け、衣川の館で義経郎党主従は討ち死にします。
満身創痍の姿で立ち往生する武蔵坊弁慶。
このもの凄い弁慶の形相を見た多くの人が未だに鮮烈に覚えているのではないでしょうか。
緒形拳、迫真の演技ですね。
弁慶の立ち往生の後ろで持仏堂に火がかけられ、義経はその中で妻子と共に自害します。享年31歳。
二人の子どもは5歳と2ヶ月の女の子だったようです。
吉野山から奥州平泉までの長い距離の逃避行を見つかること無くやれたことは、平家追討で短期間で
華々しい勝利を挙げ、そして頼朝の不興を買って急激に滅亡してしまった源義経への同情が当時から
民衆の間にあって、それらの人たちの助けがあったからのように思われます。