河野前統合幕僚長の話 近畿修猷会「教養講座」 2024.07.13
近畿修猷会「教養講座」の講師として河野前統合幕僚長が招かれたと知って私はかなりの興奮に包ま
れました。
なぜなら私は今から6年前に長年の顧客であるピアノ教師、T.ジュンコさんからLINEに保存している添付
の写真を見せてもらっていたからです。
2018年の大阪北部大地震のときに派遣された自衛隊と一緒に茨木市を慰問に訪れた安倍首相と河野
統合幕僚長と一緒に映っているのに驚きました。
安倍首相の左隣はT.ジュンコさんの姪。
T.ジュンコさんも茨木市居住ですが、彼女の住居は揺れがひどかった地域から離れていて被害を受けて
ないのでまた何故こんなスナップがと尋ねたところ、T.ジュンコさんは河野統合幕僚長とは小学校、中学
校、そして通った進学塾も一緒の幼なじみだとのこと。
茨木市に来ているからと河野氏に誘われ、姪御さんと一緒に会いにいったところ、首相とのスナップを撮
ってくれたそうです。
T.ジュンコさんのところに初めて調律に行ったのは昭和47年。
当時、彼女は神戸女学院大学ピアノ科の学生でした。
上品で美しい風貌の彼女は私の憧れの的でもありました。
以来、49年間、私の顧客であり続け、グランドピアノの弦が頻繁に切れるのでその修理とその後の部分
調律と彼女宅を訪れるのは頻度が高かったのです。
こういう次第でしたので教養講座の話が判ったとき、私はすぐさまT.ジュンコさんに電話して是非、講座に
参加されるようお伝えしたところ、何と7月13日は彼女のピアノ教室の発表会とのこと。
とっても残念な思いでした。
そして教養講座です。
当日は36名が集まりました。
近畿修猷会「教養講座」は講演後、希望者を募って講演者との会食の場が設けられ、そこでオフレコの
話なども聞ける集まりなのですが、講演者によってはこの二次会には参加しない人もいるので、世話役に
河野さんの参加のことを尋ねたところ、6時に京都で人と会う予定があるとかで5時までの1時間は参加
されるとのこと。
講演が始まる前に受付席に並んでいた河野さんの著作『統合幕僚長 我がリーダーの心得』を購入し、
講師席でノートパソコンに見入る河野さんのところに行ってサインしてもらおうと思って「森脇久雄と申し
ますが」と挨拶をしたところ、河野さんは満面の笑みを浮かべて「今日、来られることをT.ジュンコさんか
ら聞いていました!」と言われるのです。彼女から連絡がいっていたようです。
サインを終えると河野さんは名刺を差し出されるので私も名刺を差し上げました。
講演の内容ですが、今までに自衛隊のトップクラスの講演は自衛隊艦隊司令官や航空幕僚長、他、何
人も聞いてきており、そのいずれもの人が頭脳明晰、話術に長け、感銘を受ける人たちばかりでしたが、
河野統合幕僚長はそこへ、接する人の誰もが魅了される己の弱さまでさらけだすようなざっくばらんな人
柄の魅力が加わるのです。
それは著作『統合幕僚長 我がリーダーの心得』によく現れており、国防関係の本などを読まない私の
家内は河野さんの著作を読み出すとあっと言う間に半分まで読み進んだのです。
私の印象も聞いていたこともあるでしょうが、「私も河野さんに会いたかった」と言いました。
河野さんの講演は最初、案内に記されていた「ウクライナ問題」「イスラエル・パレスチナ問題」はすべて
語るには時間的に足りないので「台湾有事」のみに限定した講演となりました。
河野さんの冒頭に述べられた下記のことがまず印象に残りましたね。
本を著すことを出版社から勧められたとき、日記をつけたり、メモをする習慣がないことを理由に断ったと
ころ、諸データーは出版社の方で揃えるからと何度も勧められ、それに根負けして著作の件を引き受け
たそうです。
自衛隊のトップに立つようになった人がメモは一切しないということは驚きでしたが、メモにするとそれに
頼る面が出てきて思考、判断力に影響するという信念だったそうです。
そして著作に取りかかったときに意外に思われたのが、一つのことを思い出してそのことにいろいろ思い
を巡らすと、芋づる式に関連する諸事が思い出されてき、やがてそれらは膨大な量となったこと。
普段意識していない記憶が人間の脳の片隅に秘かに格納されていることを強く実感されたそうです。
台湾有事ですが、河野氏によれば毛沢東、鄧小平のころの中国には台湾有事のような発想はまったく
無かったとのこと。
そもそも蒋介石が国民軍を率いて台湾に逃れたとき、中華人民共和国が台湾に侵攻して占領していた
ら台湾はそのまま中国の領土となったでしょうが、それができなかった。
何故なら中華人民共和国は陸軍国家で海軍を持っていないため、あの狭い海峡ですら軍隊を派遣でき
なかったからです。
また中国は建国して間もなく、安定していない中国内陸の内政に全力を集中せざるを得ず、台湾のこと
など脳裏には存在しなかったのです。
それが国力を充実させて鄧小平のころより着手した海軍建設に乗り出し、それが台湾侵攻も可能な規
模となってきたことと海洋資源に目を付けだしたころから台湾だけでなくその後ろの広大な太平洋まで
視野が向くようになったことから台湾への露骨な領土欲が嵩じてきたそうです。
図1を見てください。
普段、私たちが見慣れない地図ですが、これで見ると中国本土を封鎖するように日本列島から沖縄、
台湾、フィリピンが存在しているように見えるではないですか。
これが中国政府が常に意識し、その打破を念願としている実態を表していると思います。
図2は中国が示す第一次、第二次、第三次列島線です。
第一次列島線は中国がここだけはアメリカの空母、原潜を入れさせずに死守する海域としたところです。
1995年中国は李登輝総統が統治する台湾を威嚇するようなミサイル実験を立て続けにしたところ、アメ
リカは即座に空母2隻を台湾海峡に派遣し、手足も出せないように中国を屈服させたのですが、河野氏
に言わせれば、このときの中国政府の屈辱感は想像を絶せるものだったらしく、二度とこのような目に
遭わないために第一次列島線を作り上げそれを守るための海軍力を増強し続けてきたのです。
そして台湾有事に対する河野氏の見解が今回の講座の主要な点となります。
多くの識者、マスコミは台湾有事で中国軍が武力による台湾侵攻を試みるものと予測しているが、河野
氏の見解は異なりました。
習近平および中国軍首脳は日米相手の直接の軍事衝突は望んでいないはず。
秘かに台湾総督府を襲い、傀儡政権を打ち立てて既成事実をつくりあげることを撰ぶだろうとのことです。
河野氏は既に台湾政府、総督府、そして総統の身近にも中国の息のかかった密偵および軍人が配置さ
れていることを匂わします。
プーチンが2014年にクリミアでやったことを真似るわけです。
クリミアのとき、国際社会は激しく抗議しますが、武力介入はされませんでした。
傀儡政権が中華人民共和国への編入を決めたらもうそれで武力を使わずに一つの中国の念願はかなう
わけです。
私を含め聴衆の大半が唖然とした思いになったようですが、自衛隊のトップ、前統合幕僚長の言われる
ことですから説得性があります。
もちろん、頼清徳現台湾総督のもとにはそのような情報は伝わっていることと思いますが、河野氏の懸
念は消えないようです。.
台湾有事において習近平を多少ともためらわせるのに有効なのは、もしかしたら日米同盟は台湾のため
に武力行為に走る可能性があるのではということを脳裏によぎらせること、と河野氏は言われます。
それは無いだろうと思っていても、万が一、少ないその可能性が起きたら、ただではすまない、膨大な損
害を強いられることを思うと決意が鈍る、そのことに日米、特に日本は軍事力を高めることに邁進すべき
である、というのが河野氏の持論のようです。
第Ⅱ部 懇親会
懇親会場は講演会会場より徒歩、5分ほどの今風のカフェみたいな店です。
参加者は20数名。
三々五々に店に向かったのですが、私が着くと同時に河野氏が到着。
私を見つけた河野氏はそばにやってこられ、隣の席に座ってくださいと私を誘います。
世話役や諸先輩の手前、いきなり主賓の横に座るのは遠慮しようと思っていたのですが、河野氏には
私とT.ジュンコさんのことを語り合いたいという想いがありありと表情に表れてましたので私は従いました。
そして個人的にお話しをすると河野氏は意外なほど人なつこい方のようで、単刀直入に私とT.ジュンコ
さんが出会ったきっかけを尋ねられ、そして彼女は私の初恋の人なんですよ、とも言われるのです。
「いや、解りますよ。彼女、本当に綺麗で知性的な女性でしたからね」と応え、河野さんもその頃、もてたの
ではと話を向けると「いえ、私はその頃、前から数える方が早いほど小柄で、今でこそ小柄ですが彼女は
小学生のとき後ろから数える方が早いくらいすらっとした背の高い女の子だったのです。それが彼女は
段々と成長がにぶり、私は伸びたので今では私の方が高いですが」と言われ、「彼女は数学が得意で大
学には数学で進学するかピアノで進学するかと迷ったくらいの才女なのですよ」と言われます。T.ジュン
コさんが数学が得意だということは私も初めて知りました。
スマホに保存している安倍首相と一緒のときのスナップを見せ、今日の河野さんが私に話してくれたお
話しとこの画像を私のホームページで紹介してもいいですか?と尋ねたら、「どうぞ、大いに紹介してくだ
さい」と言われるのでこのように紹介している次第です。
「明日、彼女と会う約束をしているのですよ」と嬉しそうに言われる河野さんのお言葉を最後に、私は河野
さんの側から離れ、先輩たちに席を譲りました。
その後の河野氏のスナップです。
本来の統合幕僚長としてへの質問が集まるせいでしょうか、幼なじみのことを語るときとは心持ち精気の
感じられぬ表情になっているのは私の思い過ごしでしょうか。
時間が来て河野氏が退席されるとき、離れた席で河野氏と語り合うことができなかったテーブルにわざわ
ざ近づいて挨拶をされるのを見て、本当に律儀なお人柄なんだなと思い、記念写真を撮らせてもらいまし
たが、女性たちは大喜びで、河野氏も幼なじみのことを語るときののような喜色満面の笑顔でした。
河野氏と入れ違いに友人のトモコさんとその娘さんが到着。
トモコさんは河野氏に大変関心を示していて参加を希望し、講座に申し込んでいたのですが、何と当日
に40年間、別居中の夫が重体に陥り、やむを得ず不参加となったのです。
ところが夫が容態を持ち直したので二次会からでも参加してもよいかと連絡があり、娘と一緒に駆けつ
けたのです。
娘のミキさんとはそれこそ40年ぶりの再会。
一足違いで河野氏に会えなかったことをとても残念がりましたが、二人の参加で懇親会は盛り上がりました。
後日、『統合幕僚長 我がリーダーの心得』を読んで下記の記述を見つけました。
「待ちに待った夏休みが来た。私は逃げるようにして大阪の茨木に帰った。茨木では、ガールフレンドと
いうほどでもないが、こちらが勝手にいいなと思っていた女の子に電話をして、万博公園でデートをした。
彼女は私が防大に入ったことを知っていて、防大が自衛隊と関係があることを何となく分かっていた。
今でもはっきりと覚えているが、デートのときに彼女は、聞いてきた。『ところで自衛隊って何やってんの?』
読むなり、私はすぐさまT.ジュンコさんに電話してこのことを尋ねたら、彼女も本を河野氏から贈呈されていた
みたいで「そんなこと書いてありましたね」との返事である。
彼女は河野氏のことを言うときに河野君と言うのです。
統合幕僚長を河野君と呼ぶ女性はおそらくT.ジュンコさんだけでしょう。
同書を読んでいて印象深かった記述は、河野氏が司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでそれまで曖昧な
思いでの防衛大学での生活に活が入り、以後、積極的に勉強するようになった大きなきっかけとなる本と
紹介しておきながら、「ただ、現在の私は司馬遼太郎の乃木大将に対する評価には賛同していない」と断
っておられることです。
司馬遼太郎の乃木大将に対する評価は事実の誤認というより、明らかに最初から乃木大将、伊地知参謀
長を徹底して愚将と決めつけるための資料読み込みをしたものと思っている私は我が意を得たりの思いで
した。
河野氏は講演の中でも大東亜戦争の総責任者とされた東条英機大将もたまたま開戦時の首相だったに
過ぎず、彼に全責任を負わす事への違和感を匂わせておられた点でも私と同じ価値観を持っておられる
と思ったものでした。
故・安倍首相がもっとも信頼した自衛官は河野氏だったようです。
それまでの「シビリアン・コントロール(文民統制)」は、自衛隊をできるだけ政治から遠ざけ、政治家との
橋渡し役は防衛庁・防衛省の文官が担い、制服組を遠ざけることが長年慣例となっていました。それに
伴い、「シビリアン・コントロール=文官統制」という誤った観念が流布してしまっていたが、2013年に安倍
首相が国家安全保障会議を創設すると、統合幕僚長を会議のメンバーに加えました。また、2014年から
統合幕僚長となった河野氏は毎週、安倍首相と菅官房長官(現首相)に自衛隊の状況・行動について報
告するようになったのです。
「それまでは官邸で制服の自衛官を見るのはまれでしたが、安倍政権からはそんなことはなくなった。
安倍総理は自衛隊の行動や考えをきちんと頭に入れて意思決定された。それこそが健全な民主主義国
家での政軍関係であり、安倍総理は本来あるべき真のシビリアン・コントロールを実践された戦後初の
総理ではないかと思います」と河野氏はネットで語っています。
河野氏は自衛隊の最高指揮官である安倍首相が最も信頼する自衛官と言われたそうです。歴代の防衛
相からも厚い信頼を得ていたことから、「自衛隊法施行令」で定める定年年齢(62歳)を越えた後も、3度の
定年延長を経て統合幕僚長の地位に留まり、史上最長の在職期間となりました。自衛隊員としては安倍
首相と最も身近に接した一人だったようです。
安倍首相が凶弾に倒れたとき、命だけでも助かって欲しいと願い続けたのも空しく、亡くなられたときは身
の置き所の無い深い喪失感に河野氏は襲われたそうです。
T.ジュンコさんの敬愛の想いを共有し、安倍首相への追慕の思いを共有する河野前統合幕僚長を私は秘
かに心の友と思っています。
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