神奈川行 2004.09.19

ミホさんの結婚式で上京する機会を利用して関東の仲間達にも会ってきました。
始発の新幹線で大阪を発ち、まずは横浜の友人宅に行ってそこで午前中いっぱい彼と語り
合い、そこで礼服に着替えて結婚式場へ。
式が終わると急ぎ、赤坂のホテルに行ってチェックインを済ませ、シャワーを浴びてホテルま
で来てくれた松下君と一緒に近くの小ぎれいな割烹料理の店で差しつ差されつのお酒を楽
しみました。

松下君は2000年に日本オーディオ協会が毎年”音の日”(エジソンが初めて錫箔蓄音機で
自らの声の録音・再生に成
功したことにちなんで同協会が記念日とする)に音造りに貢献した
人を表彰する「音の匠」賞をピアノ調律師としては初めて受賞した調律師です。
詳しくは三王シ
ステムHPに掲載された私の手記「旧友のピアノ調律師・松下和生君の『音の匠』受賞」をご
参照ください。
koharu/shuyu/moriwaki/etc/MATSUSHITA.HTM

この受賞のニュースを知ってお祝いの電話をしたのがきっかけで十数年間途絶えていた間柄
は再び旧交を恢復できたのです。
それから2年、彼は大阪にコンサートの仕事に来るたびに私たちは会ってお酒を共にしていたの
ですが、去年、彼は考えるところがあってすべてのコンサートの仕事を断ったため、関西に来る
ことも無くなったのです。
ですから今夜の出会いは本当に久しぶりであり、若かりしころの話から現在の仕事の状況から
果ては家族のことなど、話題は尽きるところが無く、彼は恐らく終電ぎりぎりの電車で帰っていっ
たに違い有りません。
興味深かったのはコンサートの仕事を断ってから収入は3分の2になったそうですが、不思議
なことに一般のお客さんが増え続けて以前と代わらぬ収入にすぐさま戻ったとか。
それはコンサートの仕事で多忙な彼を以前はお客さんたちが遠慮して申し込まなかったことも
あったでしょうが、やはり彼の腕と人柄によるところが大きいと思いました。


翌19日は小田原に行く日です。
懐かしい大乗院の人たちに会いに行くのです。
最後に訪れたのは7年前。
不吹周命師の命をかけた断食行を通じて知り合った小田原の人たちは役師を初めとして私に
とって忘れがたい方ばかりです。

右が今は亡き不吹周命師(大峯・深仙の地で60日間断食行中の30日目)


朝7時半にホテルを出、新宿に出て小田急のロマンスカーに乗りました。
ネットで調べたら代々木上原に出てそこから小田急の急行に乗れば早いみたいですが、いっぺ
んロマンスカーに乗りたかったのです。
小田急沿線はけっこう私に馴染みのある駅名がありました。
千歳船橋は昨日会った横浜の友人が昨年まで住んでいたところでして私は何度も泊めてもらっ
たところでした。
狛江は山城君が学生時代に住んでいたところでこのあたりの居酒屋で彼とよく飲んだ記憶があ
ります。現在彼は登戸に住んでます。今回は彼には連絡をとっておりません。彼は出張でよく京
都に来るので会う機会はいくらでもあるからです。
玉川学園は娘の友人で朝霧高原や面白高原で娘と野営したマイコさんが勤めている大学で、
へえ、ここなのか、と妙な懐かしさを覚えました。朝霧高原のときは私も付き添ってマイコさんに
も会い、聡明な彼女のことを大変好ましく思ったからです。
町田はよいよい会仲間の修之助どん居住の地としてよく覚えているのですが、こんなに神奈川
県寄りなのかとびっくりしました。沙絵さんは独身時代、ここから角川書店まで通っていたのかと
今は嫁がれた修之助どんのお嬢さんのことを思いました。
小田原も間近なところで「はだの」というアナウンスに駅名を見ると何と、マルゴさんが神奈川県
における居住地としている秦野ではないですか。はだの、と呼ぶなんて初めて知りました。札幌
と神奈川を行ったり来たりしている彼女がどうしてこんな東京駅からも羽田空港からも遠く離れた
ところに住んでいるのだろうか、とひどく意外な思いをしながら、彼女が住んでいる町と思うと何か
心がワクワクし、窓から見える限りの隅々までの光景を眺め回しました。

やがてロマンスカーは小田原に着きました。
すっかり近代的なビルに建て代わった小田原駅は小田急もJRも一緒の駅となっています。
M子さんが駅まで迎えに来てくれてました。
7年ぶりの再会です。
1日として忘れたことは無かった彼女ですが、まさかこのように再び会うことがあろうとは、という
思いに私の胸はいっぱいになりました。

彼女と初めて会ったのは8年前のことでした。
不吹周命師の大峯山中の霊場、深仙の地における60日断食行の陣中見舞いをするため、3人の
弟子を従えて大峯深仙行きを予定していた小田原大乗院の役師が突然の葬式が入ったために3
人の弟子たちだけを先に大峯に行かせるとき、新宮山彦ぐるーぷの玉岡リーダーを通じて私にそ
のガイド役の役目が回ってきたのです。
そして普段、山登りなどしたことない小田原の3人を大峯でも有数の険しさを誇る前鬼から深仙まで
の山行を案内したときに彼らが味わった地獄のような苦しさの中、へたばりそうになるのを励まし続
けてついに深仙の地に導かすことができたことが私たちの間に強い結びつきの絆が生じることとな
ったのです。

深仙山小屋の不吹周命師

灌頂堂内における不吹周命師先導の勤行に参加するM子さん。後方は作家の宇江敏勝さん


残念ながら不吹周命師は修行半ばの53日目に亡くなられたのですがその追悼供養登山に闘病
中で投薬の副作用で身体がむくんでいたM子さんも小田原勢に混じって深仙の地にやってきた
のです。

大峯・太古の辻で


中央が役師。


前鬼の不動の瀧 後ろに立つのは新宮山彦ぐるーぷ世話役代表の玉岡憲明氏


後に小田原の皆さんは二度にわたる深仙行きをサポートした私ら新宮山彦ぐるーぷの者らを箱
根に招いてくれ、至れり尽くせりの接待をしてくれたのです。
このとき、検査入院中だったM子さんが医者の特別の許可を得て泊まりがけで参加してくれた
ことをどんなに私は嬉しく思ったことでしょうか。




M子さんはその後も京都に旅行したときに連絡をくれ、京都で会うことがあったのですが、それを最後
にM子さんは色々事情があって私たちの前から姿を消し、7年間、音信不通となったのでした。
そして7年目に突如、M子さんから便りがあり、こうして私はこの日、彼女と再会を果たすことができた
のです。

車で来ていたM子さんは最初、箱根に案内しようと思ったようでしたが、連休で箱根行きの道路は
渋滞するらしく、私は観光目的で来たのではないから、ゆっくり話ができるところだったらどこでも
良いと言って、結局小田原城に行くことにしたのです。

そして小田原城内のベンチで、そして城内の茶店で7年間の空白で生じた様々な積もる話を彼
女の口から聴いたのでした。苦労をし、大病をし、現在も闘病中であることを風の噂に聞いていた
のでもっとやつれてしまっているのではと思ったのですが、美しい風貌と明るい雰囲気は少しも変
わっておりませんでした。


昼食を彼女お奨めの瀟洒なお店で済ませたあと、私たちは大乗院に向かいました。

大乗院住職の役(えん)師ご夫妻と秋の奥駈に参加されたセイカさん

私たちがやってきたのを知らされて、近所に住まわれる懐かしいツネさんがやってこられました。
ツネさんも最後にお会いしたのはM子さんと一緒のときでしたから7年前なのです。京都に連れ
立ってやってこられたとき、少女がそのままお年寄りになったようなツネさんに会って欲しい、と
M子さんに誘われ、私は京都のホテルまで会いに行き、それ以来この上品で可愛らしい老婦人
の大ファンになったのでした。
その前に広がっているのはツネさんが観音経普門品偈を写経したのを役師が表装されたもので
す。見事なものでした。


ツネさんは大乗院の本堂再建工事のために般若心経100巻の写経もやっておられるのです。
1字でもしくじりが許されない写経を100巻も!
御歳86歳というのに凄い精神力です。
ツネさんはつい最近大病をされたのをきっかけに元気な間に念願だった宝塚歌劇の観劇を果たし
たい、ということでこの24日に役師の奥様が付き添って宝塚に来られることになったのですが、
その知らせを役師からメールで聞いたのが私が奥駈サポートに出発する直前だったのです。
わずか十数分遅れていたら私はそのことを知らないまま、4日間家を留守にしますのでチケットの
手配も何も出来なかったことと思います。
私の指示で役師が宝塚歌劇のHPでチケットの予約をしたときは24日はA席がわずか残ってい
るだけだったのでした。

大乗院では今本堂の再建工事の真っ最中でした。
神戸から宮大工を招聘して3年がかりの工事とか。
今の本堂が関東大震災の前に建てられて震災で一度倒壊したのを復旧させて現在に至っている
のでもう百年は経過しているそうで、今度の新しい本堂も百年以上は持ちこたえて欲しいものです、
と役師は仰ってました。
新しい本堂は厨房もあり、今まで自宅に泊めていた法事の客人たちも皆この本堂でゆっくりと寝泊
まりしてもらえるようになります、と役師は嬉しそうに語られますが、役師のご自宅のご接待も、これ
またとても魅力的だったのですがね。

午後5時に大乗院を辞して再び小田原の町に戻ってきました。
M子さんは小田原駅の駐車場に車を置いて、私を料理屋に連れて行ってくれます。
「車を運転するのならお酒をご一緒できないじゃないですか」と私が言うと、「千葉に出かけている
母が夜戻ってきて車を家まで持って帰ってくれます」と彼女は言うのです。それで私は大安心。
半分個室状の部屋で私は初めて彼女と差しで飲みました。昼間の真面目でときおり深刻な内容も
伴った話とは違って夜は大峯に一緒に行った二度の山行の辛くも楽しかった思い出話、彼女の
少女時代の滑稽なエピソード、私の宴席における失敗談など笑いが絶えないお酒となりました。

午後8時ころ、お母様がやってこられて深々と頭を低くしてお辞儀され、「いつも娘のことをお気遣い
いただいて・・・」とたいへん丁重なご挨拶をなさるので本当に恐縮してしまいます。
7年前にお会いしたときも丁重な挨拶を受けており、M子さんがよほど私のことを良く言ってくださっ
ているのが推察されます。
美しい娘に惹かれてまとわりつく中年の男性、といった風な目で見られていないことが嬉しかった
です。(そういう面もなきにしもあらず、なのですがね・・・)
お母様が帰られた後、今夜泊めてもらうことになっている柴田君から電話がありました。
「電車に乗り遅れたら小田原まで迎えに行きますから、ゆっくりしてください」と彼は言うのです。
私が酔っぱらって電車を乗り過ごす可能性があると彼は思ったのでしょう。
3年前に私が禁煙するきっかけとなった電車の中で酔いつぶれて10万円盗まれた事件は最後
まで付き合ったのが彼で、当時すごくその責任を感じたらしく、今回も乗り過ごすくらいなら迎えに
行ったほうがマシと考えたのだろうと思います。
聞けば今仕事を終えて帰宅したとのこと。食事もまだだと言うのでM子さんのことを彼には是非
紹介したかったこともあり、今から車で来るようにというと彼は承知し、1時間後にやってきました。
小田原の隣の大磯町に住んでいる私の信頼する彼がM子さんと知り合いになってくれたらM子
さんのためにも随分色々好都合ではないかと思ったのでした。
二人は会うなり、すぐに打ち解けてくれたようでして、どちらかというと二人とも人見知りをする
タイプの人間であることを知っている私は、これは二人は知り合いになるべくしてなったんだ、
と思ったものでした。
彼が到着してからすぐに私はバタンキューと寝てしまったらしく、店が閉店で起こされたのは12
時ころでした。
柴田君の車でM子さんを家まで送り、私たちは大磯の柴田君宅を目指します。

柴田君の運転するRV車にゆられながら、今日はまるで夢のような一日だったな、と暗い海岸線
に目をやってぼんやりと考えるのでした。

20日はあいにくの雨でした。
明け方、電車の通る音で柴田君のマンションが東海道線沿いにあることを知りました。
8時ころ、柴田君も目覚めてパソコンを見ているようでしたので、私も窓辺に行って東海道線を
走る電車に見入りました。いくつになっても鉄道が好きなのです。
どの普通電車にもグリーン車が付いているのを見て驚くと、東海道線の電車は全部そうなのだ
そうです。関西では見たことがありません。
さらに驚くのが普通列車のグリーン車は指定席ではなく、一度極度に疲労したので座りたく思っ
てグリーン乗車券を買って乗ったところ、満席で立ったままだった、という柴田君の話には呆れ
ました。

9時ころ朝食を食べに行くことにし、外出します。
彼のマンションは想像したよりもはるかに高級なもので、所帯向けのその広さは彼一人で住む
にはもったいなさ過ぎるものでした。駐車場に面している2階の室が彼の居室です。
「大磯ではこの程度のマンションでないと売れないのです」と彼は言っておりました。

彼の運転で走る大磯の国道の標識は如何にも神奈川県下、それも湘南の地に相応しい地名
ばかりが載ってます。

彼が目指した喫茶店は大磯駅前にあるのですが、我々が到着したときは電車の発着時刻で
送り迎えの車が駐車帯を埋めており、もう一度グルッと回ってきましょう、と彼は駅を通り過ぎ
て行きます。
そうしたら通りの左側を何か由緒ありげな塀と敷地があり、その門の前を通るときに「エリザベ
ス・サンダース・ホーム」の大きな表札があるではありませんか。
旧三井財閥の令嬢である沢田美喜さんが戦後間近に生じた混血孤児のために造ったあの有
名な「エリザベス・サンダース・ホーム」が大磯の地にあるとは知らなかったので急いで柴田君
に話したところ、地元の彼もそのことは知らなかったのです。
沢田美喜さんは私が尊敬する日本婦人、大和撫子の一人です。
沢田さん関連のサイトに、占領下の日米混血児は約5000人。そのうちホームで育った子ども
は2000人、仲立ちをして海外に養子に送った子どもは500人を超えた、と記されています。
詳しくは下記のサイトを参照下さい。
http://www.age.ne.jp/x/yokohama/ijinkan/sawada.htm
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%F4%C5%C4%C8%FE%B4%EE?kid=44398


グルッと回ってくると今度は駐車するスペースがありました。
駅東側にある喫茶店に入ってモーニングサービスを注文し、ここでまた柴田君とのお喋りが続き
ます。今回の奥駈サポートの反省や12月の蛍祭りにM子さんを熊野までお連れしよう、という彼
の提案やらで話が賑わいます。
朝食を終えると彼はまだ時間があるので(彼はお昼過ぎから友人が家にやってくるのです)、
湘南平に行きませんか?と言ってくれます。聞けばこの大磯駅の後方に広がる丘陵(最高点は
海抜179メートル)の展望台とか。
一も二もなく、私は即座に賛成して連れて行ってもらいました。

途中の大磯の国道は昔の東海道をそのままです。並木の松の間隔からして東海道というのは
かなり広い街道であったことが判ります。

国道から離れて内陸部に入っていく道すがらには大邸宅らしき門構えの家もあります。

内陸部に進むに連れて原野のような自然の森に恵まれたところにやってき、大磯が海岸だけで
なく野山にもふんだんな自然に恵まれたところであることが判ってきます。
そして車道をくねくねと登っていって、湘南平に着きます。
鉄塔の展望台からの眺めは素晴らしいものでした。

東の方角です。
平塚から藤沢、そして江ノ島が見え、三浦半島が見えます。遠くにかすかに判別つくのが房総
半島とか。
湘南平の下から筑波山までの間に関東大平野は広がるそうで、湘南平は言わば関東平野の西
の果てになるとか。

西の方角です。
写真では判りづらいかも知れませんが、小田原から箱根まで見渡せ、海岸線の向こうには真鶴
半島、そしてその向こうに伊豆半島が見えるのです。松林が続く大磯の海岸線も美しいもので
した。
柴田君が大磯に深く愛着を感じ、ここから離れようとしないのが解るような気がします。

北東の方角です。
これは望遠で撮りました。真下は平塚市から伊勢原市、厚木市と北東に広がって行くそうです。
平塚市はルーメイさんが関西に引っ越ししてくる前に住んでいた地。この湘南平そのものが所
属は平塚市だそうで、この頂上からの写真を彼女にメールで送ったところ、懐かしさで涙が出
てきたとのこと。
たった半年でもホームシックというのは罹るものなのですね。

八王子はどのあたり?と尋ねたら真北のはるか遠くの山並みを指してあの向こう側です、と
柴田君は答えてくれました。
去年の暮れ、怪盗ルパンさんに案内されて逍遙した八王子の山野のことが思い出されました。
足もとの黄色い矢印をつけているところが柴田君のマンションです。

柴田君の背後の金網に街灯に群がる虫のように集合するのは何でしょう?
そうです。南京錠なのです。
ここ湘南平の展望台に建つ鉄塔は恋人達の愛の成就を願うメッカでもあるのです。
湘南平の麓にある店で南京錠を買い求め、名前を記してここにぶら下げると愛が成就する
そうなのです。そう言えば若い男女のカップルが多かった。
そしてその行き会うカップルが異様に私たちに対して優しかったのです。
今ふと思ったのですが、まさか、我々はホモのカップルと思われたのでは無いでしょうな!
(う〜む・・・)
こちらは西側ですが、東京に面する方は遙かに多い数の南京錠がぶら下がっております。
それらが金網を埋め尽くすまでになると、鉄塔の管理会社が南京錠を鉄ばさみで外しに
来るそうです。

湘南平を後にして再び大磯の町に戻り、柴田君推奨のトンカツの店で昼食を取りました。
車を駐めて店まで歩く途中にこのような石の記念碑が建っていました。
「湘南発祥の地」
柴田君の話によれば、鎌倉や藤沢の人間はそこが湘南であり、大磯は湘南ではない、と言う
らしいです。
しかし、このような立派な記念碑が建っているのですから誇りをもって大磯が湘南の地である
ことを主張して欲しいですな。
しかし、なんで湘南の地であることを誇らなければならないのか、と尋ねられたら私はよう答え
ませんが・・・
柴田君、推奨のトンカツの店の味は絶品でした。
私は通常、トンカツ定食を注文するとその三分の一は気持ち悪くなってお肉を残すので、最初
からその分量を柴田君の皿に回したのです。ところが食しているうちに上質な油で揚げている
のか、肉が上等なのか、味付けがいいのか、とにかく淡泊な味が美味しく、あっという間に自分
に残した分を食べてしまったのです。う〜む、柴田君に三分の一譲ったのはちと早まったな、と
思うくらい、美味しい味でした。
ところが残念なことにそこのお店の名前も連絡先も控えていないのです。
昼食後、午後1時に柴田君に大磯の駅まで送ってもらい、そこで彼と別れました。
午後3時半まで待てば越後から東京に戻ってくるルパンさんに会える可能性もあったのですが、
東京からここまで来るのにも1時間以上はかかるわけで、今回はルパンさんと会うことは諦め、
そのまま京都までの新幹線の切符を買って大磯駅構内に入りました。
プラットフォームで東海道線の電車を待つ間、せっかく近くまで来ていながら挨拶の一つもせず
に去ることに後ろめたさを感じてマルゴさんの携帯に電話したら、なんと彼女は今、宮崎県に
居るとのこと。
「まあ!すれ違いですねぇ!」とマルゴさんのインパクトのあるお声を聞いて、私はなぜかホッと
するものを感じながら大磯を後にすることが出来たのでした。
小田原で新幹線に乗り換え、京都で在来線に乗り換え、京阪電車に乗った時点でルパンさん
から電話をいただきました。
「帰京が遅くなってお会いできなかったのが残念です」
「いえいえ、またお会いできますよ。ルパンさんの電話してきて下さったそのお気持ちが嬉しいです」
満員の特急電車の中で受けた電話なので最小限度のことしかしゃべれなかった私の思いを今、
ここに記させてもらいます。

思い出多き、神奈川行きでした。