6/1 2006掲載

オーストリアのエリザベート  Part-1
 
K.mitiko

オーストリアのエリザベート皇后といえば、映画にミュージカルに
伝記、コミックとすでに書き尽くされた感があり、またこの
ホームページでも2000年ごろ話題になり活発な談義がなされていました。
そういう状況の中で、先日ヴィヴィアン・リーの生涯をまとめて気がつき
ましたのは、私が今まで大好きだった女性3人のうちマリア・カラスと
ヴィヴィアン・リーについては取り上げましたが、後にもう一人
エリザベート皇后が残っているということでした。
 
    エリザベート皇后
 
私が12,3歳のころ父の持ち帰りました写真雑誌の「ライフ」でこの写真を
見ましたときに、その女性の気品のある美しさとその人がオーストリアの
エリザベート皇后であることに興味を持ちました。そのころ愛読して
いました少女雑誌(少女の友)に掲載されたエリザベート皇后作の詩を見て、
ロマンティックな内容に魅了され、私の手帳に書き写したりして居りました。
その人が無政府主義者によって暗殺されたということ以外は長い間この女性に
ついての詳しいことは知るすべがありませんでした。
 
 馬上のエリザベート
 
しばらくして若き日のエリザベートをロミー・シュナイダーが演じた「プリンセス・
シシ」の映画がオーストリアでヒットしている(日本は未公開だったと思います。)
ニュースが入ってきたり、皇太子の心中事件を描いたシャルル・ボワイエ、ダニエル・
ダリュウ主演の「うたかたの恋」(戦前は上映禁止)がやっと公開されるようになったり、
そのリメイク版のカトリーヌドヌーヴ、オマー・シャリフ、エヴァ・ガードナー主演の
「うたかたの恋」の上映、ルキノ・ヴィスコンテの「ルートヴィッヒ・神々のたそがれ」
などでエリザベートのことを知るようになりました。やがて宝塚歌劇の「エリザベート」の上演
など映画やミュウジカル、伝記が次々と発表されて日本人の多くの人たちにもエリザベート
皇后のことが知られるようになりました。そしてまたたくまに歴史上の著名な人物に
なって、すでに知り尽くされているような女性ですが、まだご存知ない方も居られる
のではないかと思い、私の視点からエリザベート皇后のことを紹介したいと思います。

   若き日のエリザベート
 
エリザベートは1837年、バイエルン王国のヴィッテルスバッハ家に
つながるマクシミリアン公爵とバイエルン王国の王女ルドヴィカ
との間に8人兄弟姉妹の次女として生まれました。ヴィッテルスバッハ家は
11世紀以来700年にわたって続いてきた名家で、ハプスプルグ家につぐ
勢力を持ち代々美男美女の家系として有名でした。
 
  父マクシミリアン公爵
 
父マクシミリアン公爵は情熱家で、なによりも自由を愛し、束縛を嫌う
リベラルで開放的な人物でした。音楽を愛好し、みずから民族楽器チター
を弾き、その普及に努めました。詩人である一方、乗馬や狩猟、釣りを好む
スポーツマンでした。エリザベートと兄弟姉妹は、ヴィッテルスバッハ家の
よき伝統と感性豊かな父の影響もあってのびのびとした幼年時代を
過ごしました。
 
 エリザベートの実家
 
オーストリア国境に近い、アルプス山脈の麓にあるポッセンホーフエンの館。
そこは厩舎には馬、そして家中を駆け回る犬たちの、大自然に囲まれた
和やかな家庭的雰囲気のなかで、エリザベートは愛称「シシ」と呼ばれ
ながら育っていきました。
 
  少女時代のエリザベート
 
このような家庭環境にあってエリザベートは勉強といえば
語学や作文、絵画などに熱中し、詩を書いたりしました。歴史などには
全く興味を示さず、貴族の娘に必要な一般教養や礼儀作法には見向きも
しませんでした。父のマクシミリアン公爵は自分の性格をもっとも
よく受け継いだエリザベートを野山を放浪するとき連れていっていました。

 
  珍しいエリザベートの写真(1853年)
 
姉のヘレネは母親の言うことをよく聞き、礼儀正しい優等生
でしたが、エリザベートは父親の血をひいた感受性の強い
芸術家気質で、野山を駆け巡っているかと思うと、部屋に
閉じこもり、もの思いにふけり、夢見がちで詩をつくったり
していました。エリザベートが特に夢中になったのは乗馬で
それは生涯かわることがなく、バイエルンの美しい大自然の
なかで、夢想的なそして野性的な乙女に育っていきました。
 
 オーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ
 
1853年、オーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフと姉ヘレネの見合いに
同席したエリザベートに皇帝が一目惚れをして、結婚の申し込みがあり
思いがけない結果にまわりは驚きましたが、一番驚いたのは他ならぬ
エリザベートでした。なんの心の準備もできていなかったので、嬉し
さとともにショックも受けました。皇帝の申し込みとあれば断ることも
できず、エリザベートの運命は決まりました。そのとき16歳でした。
 
 婚約時代のエリザベート(1853年)
 
皇帝フランツ・ヨーゼフはハンサムでおだやかな性格で申し分の
ない青年でしたが、当時クリミヤ戦争に巻き込まれ、二人が話し合う
余裕もないほど激務に翻弄されていました。ウイーンでの結婚式を
控えて花嫁修業が始まり、その一つに「オーストリア帝国の歴史」が
ありました。講師のハンガリー人の学者は、オーストリア帝国を
礼賛していましたが、ウイーン宮廷が嫌っていたハンガリーの立場から
講義し、ハンガリーの歴史や苦悩について語り、共和制の美点についても
説いてエリザベートの歴史観や国家観に大きな影響を与えました。後年
彼女がハンガリーびいきになり、共和制に理解を示した一端になりました。
 
  結婚式
 
エリザベートの住むミュンヘンから結婚式をあげるウイーンまでの
道中は、祝典やセレモニーで埋め尽くされ、ウイーンでの結婚式と
披露の式典、パーティは16歳の少女のエリザベートにとって想像を
超える盛大なもので、一人一人紹介される人々があまりにも多いので
泣き出す一幕もありました。彼女は大きな祭礼、式典の主役になるには
あまりにも不向きな内気な性格でした。
 
 ウイーン郊外を散策する皇帝夫妻(1854年)
 
夫となったフランツ・ヨーゼフは子どもの頃から帝国の指導者
たるべく育てられ、勤勉で誠実、時間に正確で几帳面、自分の
行動に責任を持ち、1916年の死に至るまで帝国そのものを体現
する人物として自らの役割を演じつづけた人物でした。そして
エリザベートを生涯愛しつづけました。
  ゾフイ大公妃  (1958年)
 
皇帝フランツ・ヨーゼフの母ゾフイ大公妃は、エリザベートの母とは
姉妹でエリザベートにとっては伯母にあたり、政略結婚でハプスプルグ家の
皇帝の弟に嫁ぎ、4人の男子を儲けました。オーストリアの動乱の時代、
虚弱体質で統治能力のない皇帝が退位した後、宮廷内の権力を手中にした
ゾフイ大公妃は、夫を歴史の表舞台から葬り去って(すなはち自分の皇后の
座をなげうって)長男のフランツ・ヨーゼフを帝位につけました。なにごとも
母の言うままだった息子がその言いつけに反したのは、結婚相手にエリザベートを
選んだことでした。ゾフイ大公妃は未熟な姪を立派な皇后に育て上げるべく
待ち構えていました。
 
 
 
ハプスプルグ家は中部ヨーロッパに広大な領土をもち最も古い
歴史と伝統を誇る王家で、面倒で複雑な宮廷儀礼がありました。
お互いに愛し合ってはいましたが、自由にのびのびと暮らして
きた乙女にとって、厳しい礼儀作法ずくめの宮廷生活は、牢獄にも
等しいものでした。威厳ある皇后にしつけようと意気込む
ゾフイ大公妃とはそりが合わず、夫は政務に多忙の上に母親の
言いなりの息子でエリザベートは孤立無援の心理になっていきました。
 

すでに結婚式とその前後に続く祝典や挨拶、答礼にほとほと疲れ
果ててしまっているエリザベートにとって、結婚式の翌日から
はじまった義母の手厳しい干渉に苦しむことになりました。
皇后の日程はあらかじめ大公妃によって決められ、大公妃が
選んだお目付け役の女官長のもと、分厚い「御覚え書き」の名の
大公妃の命令にそって1日が始まり、当時のことをエリザベートは
「私は牢獄で目を覚ました。手には鎖が重く、憂いは日々に厚い。
自由よ、お前は私から奪われた」と記し、このような日々のなかで
エリザベートは次第に生気を失っていきました。
 
 王女ギーゼラと皇太子ルドルフ (1958年)
 
まもなく相次いで子どもが生まれましたが、大公妃が未熟な嫁を
好ましく思わず、子どもたちの教育を彼女に任せられないと、
二人の王女と皇太子ルドルフをエリザベートから取り上げてしまい
自分の手で育てようとしました。実の母親であるエリザベートが、
わが子に会えるのはわずか1日に1時間だけ、それも監視付きという
状態でした。
 

皇帝はエリザベートを愛しながらも母親に弱腰で、
いつも大公妃側につくので怒った彼女は妻としてのストライキも
しましたが、皇帝は不器用な表現ではありながら皇后を深く
愛していました。エリザベートにとっては、ときには夫や子どもたちと
水入らずで過ごしたいというささやかな願いも、儀礼慣習の前には
しりぞけられてしまいました。
 
  自慢の髪
 
自由のないがんじがらめの宮廷生活のなかで、嫁姑の葛藤に
疲れ果てたエリザベートは、孤独感に打ち勝つために関心は
自分に向かい、身長172cmウエスト55cmプロポーションを
維持し健康で美しくあることに情熱を傾けはじめました。
その美しさと若さを保つために絶えず美容に心がけ、極端な
食餌療法を実行しました。中でも自慢の髪の手入れは「私は髪の奴隷」
とこだわり、毎日の結髪に3時間、3週間に1度の洗髪は1日がかりと
膨大な時間と労力を費やしました。
 
 
本来内向的な性格で臆病なエリザベートは、自分の体をシェイプアップ
することで安心感を得ようとしますが、宮廷内の嫁姑の確執にはじまる
権謀、策略は彼女の心を苛み、肉体的、精神的な疲労に拍車をかけて
病床に臥せることが多くなりました。皇后を診察した侍医は太陽の輝く
国での療養を進言しました。このひとことはエリザベートに魔術的な力を
与え、そののち死にいたるまで彼女の生活を支配しました。
 
 マディラ島のエリザベート(中央)
 
皇帝は帝国領内のアドリア海沿岸の陽当たりの良い海岸を
勧めましたが、エリザベートが選んだのははるかスペインの南、
地中海上に浮かぶマディラ島でした。心身を病んだ23歳の皇后は
癒えることのない病を背負って旅立っていきました。見送る
皇帝はこののち自分の生涯が孤独な道程になろうとは予想だに
してませんでした。
 
 コルフ島のアキレイオン荘
 
マディラ島での転地療養は一定の効果がありましたが、ウイーンに
帰ると病状が悪化して、またマディラ島に戻るという状況に
マディラから始まったエリザベートの終わりのない旅は、シブタラル、
マジョルカ、マルタ、コルフ、ロンドン、アムステルダム、ナポリと
続いていきました。時々帰国することが条件でしたが、ゾフイ大公妃の
いる宮廷から逃避したいという願望は、エリザベートの流浪の人生の
始まりでもありました。

Part2へ続く

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