10/29 2004掲載
by v. K.
前回触れた東ドイツの医療の仕組みは統一後どのように変わったであろうか? その前に統一後の人口動態を簡単に紹介しておこう。
ザクセンのスイス:
<要塞>と名付けられた地域。砂岩の割れ目にしみこんだ雨水が結氷し,さらに割れ目を押し広げてこのような地形を作った。
1989年の東西ドイツ統一以来多くの人が旧東ドイツ地区を去り,西に移住していった。ベルリンの壁が出来た1961年以降西に脱出する東ドイツ市民の数は激減したが,それでも1961年から1990年の間に200万人が危険を顧みず,あるいは年金生活者になったので体良く追い出されるように西側に脱出している。統一後も1991年から1998年の間に180万人の人々が西に移住していった。その大半は就労年齢層の人々であった。それはこの地区には仕事が無いことを如実に物語っている。統一後14年経った現在でも旧東地区と旧西地区には経済の構造と発展の度合いに著しい差違が続いている。主要な問題の一つに,旧東ドイツ地区では初めて失業問題に直面したことが挙げられる。社会主義国東ドイツでは国は国民に仕事を与える義務があり、原則として失業はあり得なかった。それが近年のドイツ経済苦境の下,失業率は西地区では1995年の8.3%から2001年初頭には8.0%へと僅かに回復したのに対し,旧東ドイツ地区での失業率は同時期14.0%から18.9%へと,ただでさえ西よりはるかに悪い数字がさらに著しく悪化している。この異常に高い失業率がネオナチを生んだ。1990年代にはスキンヘッドの若者が外国人排斥を叫んで市中を練り歩き、トルコ人やベトナム人が襲われて死者が出た。いくつかの州の議会では極右政党が議席を確保し、ネオナチは大きな社会問題となった。スキンヘッズの多くは特に産業の乏しい、旧東ドイツ北部沿海地方の出身であった。彼らは東西統一がなければ国営工場で働くか、ワルシャワ条約機構軍の兵士として、質素ではあっても食べるには困らなかったはずである。それが良かったかどうか判らないが。
ザクセン候家宝物室所蔵,マイセン磁器,金箔,宝石で作られた茶器セット
ドイツ統一後旧東ドイツ地域の医療体制は大きく変わった。病院,ポリクリニーク,アンブラトリウムはほとんど建て直され,制度的にも機能的にも統合再編された。病院の運営母体も国営から様々なものに移管されたであろう。医師は国家公務員ではなくなり,開業が可能になった。現在ではドレスデンの街角にミュンヘンやフランクフルトにあるような開業医の診療所を見つけることができる。街角にある堂々とした石造りのビル。その入り口の脇には「医学博士
○○。△△科専門医。診療時間・・・」と刻んだ石の表札が4,5個,場所によっては10個ほども壁にはめ込まれている。これはアンブラトリウムではない。日本でも見られる,開業医ビルクリニックの集合体である。
ここも一挙に医師過剰の時代になったかなと,私は思った。統一後あらゆる産業分野で西側企業が旧東ドイツ地区に進出し,東地区の経済を牛耳っている。医師も旧西ドイツ地区は既にかなり以前から飽和状態で,大都市での開業は非常に困難な状況であった。だから西地区から開業の新天地を求めて多くの医師が東地区へ映ってきたに違いない。このビルクリニックの医師も半分くらいは西から来た人かもしれない。開業医のいない東ドイツでは軽い風邪程度でもいちいち遠方のポリクリニークに行かねばならず,大変だったろうが,今は医師の数も増え,診療所もあちこちに出来て,これですこしはドレスデン市民も医者にかかり易くなるに違いない。しかし競争に慣れていない東ドイツ出身の医師は,ふんぞり返った武士の商法をしないように心懸けねば大変かもしれないな,,。
国立ドレスデン絵画キャラリー<アルテ・マイスター>より<眠れるヴィーナス>,ジョルジョーネ,1510年頃
そう思った私に対し,R氏の説明は予想もしないものだった。
「舩津さん,統一以来東地区の人々が競うように西に移住しているのはご存知でしょう。医師も多く西に行ったのです。」
「東地区で医師の大半は国家公務員であることから解放され、自由に開業出来るようになりました。勤務医の道を続けた者も、開業の道を選んだ者も、全体的に東ドイツ時代より所得は増えました。でも現実は厳しいです。まず開業する場所ですが,ポリクリニークやアンブラトリウムで働いていた医師達のうち,一部の者は民営化されたそれらの施設の中に自分の診療所を確保することが出来ました。しかし開業を目指す大部分の医師にとっては自力で診療所となる建物を確保し,医療設備を銀行融資を受けて購入し,自分で雇った職員に給料を払わねばなりません。でも,それらを賄う診療報酬は東では西より低い割合に抑えて支払われるのです。だから開業のリスクは西地区より大きく、低い診療報酬を補うためには一人でも多く患者を診ないといけない。しかし今更新たな苦労はしたくないから,老齢年金がもらえる歳(65歳,場合によっては63歳や60歳の場合もある)になったら多くの医師が引退の道を選んでいます。それに診療報酬が低い東地区にどうして西から医師が移ってくることがありますか?」
ドレスデン王宮のタイル絵<ザクセン選帝候の行列>
「勤務医としても,私達東側の医師は不当に扱われています。あらゆる職業において旧東ドイツ国民は給料が低く抑えられていますが、医師も例外ではありません。ドレスデン大学病院で働く医師は,ミュンヘン大学病院で働く医師より給料が安いのです。同じように患者を治療していて,なぜ東地区の医師は安く扱われるのか,私には解りません。」
R氏の語気には怒りが籠もっていた。自由主義社会の日本では物価や給与に地域差があるのは皆当然と思っている。東京の勤務医と福岡の勤務医では給与に差があるであろう。しかしドイツでの問題は東京−福岡間の問題と同列に比較するものではないので,私は黙っていた。
「だから東の若い医師はどんどん西に行きます。西で開業しているか,それは解らない。同じ勤務医でも西の方が給料が高いのだから,西に行くのは自然の流れでしょう。」
「東地区では医師の数はどんどん減りつつあります。引退した後の診療所を誰も継ごうとしません。ドレスデンやライプツィヒのような大都市はまだ良い。しかし田舎に行けば医師不足は深刻です。」
公園を一周する鉄道。すべて子供たちが運営する。
それに,,と憤懣が堰を切ったのか,R氏はさらに続けた。
「東ドイツ時代,医療には心が通っていました。でも今は全てがビジネスライクになってしまった。医師は患者を呼び込み,夜遅くまで働いて借入金を返し,職員に給料を払い,後に残った金で自分と家族を養わないといけない。みな金に追われるように診療しています。」
R先生,私の国ではずっと以前からそのようでしたと,私は心の中でR氏に言った。口には出さなかったが,過去数十年間の日本における医師の姿の変遷を彼に説明してみたかった。
・・・第二次世界大戦の荒廃から復興した日本の高度成長期、開業医はとても忙しかったが経済的には充実していた。医師は尊敬を受ける職業であった。それは今でも変わらないが、日本の人口構成の変化は医師のあり方にも大きな変化をもたらした。第一戦を退いた高齢者が増えると医療費は飛躍的に増大したが、財源は簡単に増加が見込めず、健康保険制度は危機に瀕した。開業医はそのしわ寄せを受け、医院経営は次第に窮屈なものとなった。人間的暖かみのある治療をする前に、常に経営効率を考えるようになった。医院経営に苦労は付き物の時代になったので、開業医の子弟にも親の医院を受け継ぐことをせず、大きな病院の勤務医になる道を選ぶ医師が近年増えた。開業医は既に富裕層ではなくなった。
王宮中庭で催される騎馬試合
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