6/12 2002掲載
大峯奥駈修行サポートの旅
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奥駈2日目・その2
奥駈隊が出発した後、しばしの休憩を取って後片付けを始めます。
食器類を洗い、煮沸消毒をいたします。
合成樹脂の汁茶碗は火箸ではさんだまま、湯に浸け、すぐに引き上げなければなりま
せん。
ゴミも燃えないものと燃えるものに分別。全部持って帰ります。
そんな作業をしているうちに雨が降り出して時々強い雨足となり、奥駈隊が難儀して
いるだろうな、と皆気遣います。
すべての片づけをし、掃除も済ませて昼食を取り、午後2時に持経宿を後にしました。
大峯山脈の東側に位置する下北山村・前鬼までこれから行くわけですが、今まではこ
こから悪路の林道を1時間もかけて国道分岐まで戻り、国道の白谷トンネルを抜けて
大峯の東側に出ていました。ところが崖崩れのために長い年月通行止めになっていた
持経宿から直接、下北山村につながる池郷林道が今、9割方修復工事が進んでおり、
もしかしたら通れるかも知れない、と言って山上さんが彼のRV車で偵察に行ってき
たところ、20分ほどして彼は戻ってき、「通れる!こっちを行こう」と言うのです。
長い池郷林道をわずか10分走ったくらいで全線通行できるということがどうして判
るのですか、と疑念を表明したら、唯一残っている通行不可能の崖崩れ現場がこの持
経宿より10分ほどのところであり、まだブルドーザー車などが止まっているが車は
一応通れる状態にまで復旧されており、そこを通過すれば後は大丈夫とのこと。
まあ、新宮山彦ぐるーぷの人たちの大峯情報は凄いものがあります。
山上さんの車を先頭に私、松本良さん、中世古さんの順で池郷林道を走ります。私に
とって池郷林道を走るのは十数年ぶりのことです。
白谷林道にも負けぬくらいのでこぼこ道ですが、やっと舗装されたところまで来、ゲ
ートを通過しホッといたします。
ゲートを閉め、錠をする段になってさび付いているのかなかなか施錠できません。
山上さん、松本さん、中世古さんと順番にアタックしてやっと施錠できました。
普通、ゲートで閉ざされて進入禁止になっている道の方が危険な悪路のように思うの
ですが、ここ池郷林道は逆なのです。
ここから下は舗装されていますが、ゲートの上のルートと違ってほぼ全線、断崖絶壁
に面した山腹の道を走るのです。カーブの連続なのに随所においてガードレールが無
く、しかも雨で道路はぬれて落石もときたま落ちており、それを避けるために広くも
無い道路を崖側に寄らなければならないところもあり、かなり緊張するドライブでし
た。万が一踏み外したら絶対に助からない高度の上を走っているのです。
石ヤ塔、という奇妙な名のついた景勝の地です。
ふと気づいたら松本夫人が車道から降りていって崖際を覗きこんでいるのです。画像
ではそう解らないでしょうが、その先は絶壁なのです。
「やめてくださいよ!見ていて心臓に悪いです」
とつい声をあげてしまいます。
一に池郷、二に白川又(しらこまた)。三に四ノ川(しのごう)四に前鬼、と歌われる
ほど池郷川は険しく彫りこまれた大峯屈指の渓谷です。
沢登りの世界でも4級グレードの険しい谷として全国的に知られています。
池郷林道を出て池原の村に入ったときは本当にホッとしました。
ここから国道169(熊野街道)を15分ほど北上し、前鬼口のバス停のところから前
鬼林道に入ります。
9キロの林道を走って写真の車止めのところも鍵で開けて鎖をおろし、前鬼の村の中
まで直通します。一般登山者はこの車止めから沢沿いの山道を30分歩いて前鬼入り
しなければなりません。
1300年の歴史を持つ山伏の里、前鬼にただ一つ残る小仲坊の宿坊です。
昭和59年に小仲坊の当主、五鬼助義价氏が亡くなられてから前鬼は無人の村となり
ました。
奥駈をする修験者や登山者のために宿坊としての機能を果たすため、五鬼助義价氏の
甥である五鬼助義之氏がご夫妻で週末や奥駈修行のおりにやってこられ宿としての経
営に勤めています。
ちなみに五鬼助義之氏は私のすぐ近所(寝屋川市の同じ小学校校区)に住んでおられ、
それを知ったとき、大峯前鬼・小仲坊の66代当主が寝屋川に住んでおられることに私は感慨深いものを感じました。
前鬼には青岸渡寺の職員たちも3台の車を連ねて迎えに来ておりました。右側から
田代真平君、田中一生さん、渡里誠さん。
真平君は高校生のときに一緒に奥駈をしたのですが、生まれて初めて吉野入りする彼
のルートが国道でもなく鉄道でもない大峯の山々を越えて行ったことに深い感銘を受
けたものでした。
前鬼では我々サポート隊はめいめい車の中でしばしの仮眠をとりましたが、午後4時
半になるとぞろぞろと皆起きだしてきました。奥駈隊が早ければ午後5時には前鬼に
到着する可能性があるからです。
山上さんたちがお茶の用意をしだすころ、前鬼五家の宿坊跡をデジカメに写しに行っ
た私は、そのまま登山路を登って奥駈隊を迎えに行くことにしました。
杉の巨木の林立する樹林帯を登っていきながら、ここで迎えるか、あそこで迎えるか
と奥駈隊が通過するのを撮影する重要なポイントを検討します。
最終的には、奥駈隊が沢を最後に渡渉する地点で迎えることにしました。
沢の手前側は急な斜面になっており、緩やかな傾斜となっている沢の向こう側の山腹
を奥駈隊が姿を現したとき、高い位置から横一列に奥駈隊の姿が写せると思ったから
です。
沢を渡る奥駈隊を眼下に見下ろす斜面の高いところで待つこと約15分ほどして、法
螺貝の音が聞こえました。
何度もデジカメのアングルを確かめます。午後6時近くとなり、樹林帯の中はかなり
暗くなってきていてストロボの助けは絶対に必要な状況であり、広い範囲にわたる照
射はシャッタースピードが遅くなって画像の鮮明度が落ちます。それをカバーするた
めに私は立ち木にカメラを固定してシャッターがぶれないように備えます。
そして、法螺貝の音が聞こえてから約10分ほどしてついに沢向こう側の山腹に我ら
が熊野修験団奥駈隊の姿が現れたのです。先頭には紛れも無い花井先達の姿があり、
その後に修験者姿の者が威儀を正して降りてきます。そのとき、私は何ともいえぬ愛
おしさと安堵感いうものをこの一隊に感じたのです。
私が過去何度もここを下りてくるときに感じる疲労困憊の極みの状況のことを思い出
しながら現に目の前に下りてくる一団の秩序を保って静々と歩行する様を見るとき、
嗚呼、何と立派に奥駈をやり遂げてくれたことよ、若き花井先頭先達よ、よくもこの
50数名の一団を一人の落伍者もなく前鬼に連れてきてくれたことよ、と言葉にならな
い叫びが心の中ではじけるような感じでした。一族郎党という言葉がありますが、私
はこのときほど、熊野修験団の仲間たちのことをそのような封建的運命共同体のよう
に感じたことはありませんでした。これは山で苦労を共にしてきた者たちでなければ
一寸理解できない感情かも知れません。
シャッターを押すと同時に生じるストロボの閃光で私の存在に皆さんは気づいたよう
で一瞬どよめいた声があがります。
「後、5分の歩行です!」
と私は叫び、彼らが沢を渡るところを何度もシャッターを切り続けたのでした。
(後で聞いたのですが、初参加の人達は私の後5分という声に凄く励まされたそうです)
前鬼五家の宿坊跡地のそばを通りながら奥駈隊は前鬼小仲坊に近づきます。
小仲坊に到着した奥駈隊はそのまま行者堂に向います。
行者堂における最後の勤行。
こうして熊野修験夏の峯入りは一人の落伍者も出すことなく無事に終わりました。