旧友との再会 11年目の帰郷   2013.02.10  リワキーノ

今日は中学校時代の友人だったニシモト君夫妻の招待を受けて、春日市の彼のお家に寄せてもらい
ました。
彼とは城西中学校の1年生のときのクラスメートだったのですが、私が城南中学校に移っていっても
ずっと交友が続き、毎週のように遊んだ仲でした。
高校も違っていたのに私は彼をCapt.Senohやセンコー殿(もりぞのとしこさんのご亭主)にも紹介し、
一緒に遊び続けるくらい、彼のことが好きだったのでした。
しかし高校生活が忙しくなってきてその後、彼と疎遠となりました。

そして高校を卒業してピアノ調律の修行のために浜松に行ってからしばらくして突然、彼から会社の
寮に電話があり、彼もピアノ調律師の修行をしに浜松に来ていると言うのです。
これには驚きましたが、彼のお父さんが全音楽譜出版・楽器の九州支店長でしたから自分の息子を
ピアノ調律師にさせようと思ったのは自然のなりゆきだったのでしょう。
早速、私は彼の寮に訪ねていき、旧交を温めたのですが、その後、どちらも浜松を去って私は大阪で
就職し、彼は父親の指令で修行のために九州・中国地方の全音の取引店を転々と回らされてました
ので、自然と交流が消えてしまったのです。

それから18年の歳月が流れたころ、私が勤めていた楽器店に突然彼が電話してきたのです。
今は福岡の全音楽譜出版・楽器九州支店に勤務しており、結婚して子供も二人いることを知りました。
私はその年の暮れに父母のもとに戻った時、早速彼に会いに行ったのですが、20才ころまでは心が
とても優しい性格ゆえ人にノーを言えないという、気が弱いイメージが強かったのですが、18年ぶりに
あった彼は一家の長としての風格と落ち着きを持った立派な大人になってました。
最初は天神で会食をと約束していたのですが、奥様が是非、お家へお連れするようにとのことで、彼
の運転する車で彼の住まいまで案内されたのです。
品の良い奥様と可愛らしい小学生の二人のお嬢さんが玄関に出迎え、挨拶されたとき、私は何とも
言えぬ感銘を受けました。
あの、優しいけれども気の弱く、頼りないイメージだったニシモト君がこんなに暖かく愛情深そうな家
庭に恵まれていることに喜びと大きな安堵感を感じたのです。
全音の九州支店長だった彼のお父様は既に亡くなっており、ご馳走になりながら夫妻からお父様の
ことを色々聞いたのですが、お父様の人格と人望がご本人亡きあとも息子の仕事を助け、支え続け
ている話には深い感銘を受けました。
この話の詳細にご興味のある方は下記をクリックしてください。

ニシモト君のお父様

正午にお邪魔し、夕方までゆっくり過ごさせてもらった私が別府団地の父母の家に戻ってきた時、父
が「どうだったかね?ニシモト君との再会は」と尋ねるので「近年、こんなに感動した友人との再会は
無かったです」と答えました。
「そうか。それはよかった」という父に私は「お父さんは杜甫の『今夕、また何の夕べぞ、この燈燭の
光を共にする』で始まる杜甫の漢詩をご存じですよね?」と言うと「父は知っている」と答えるので「ニ
シモト君との再会はまさにあの漢詩の世界でした」と私は言ったのでした。

『贈衛八処士』 杜甫
人生において、一度別れた友と再会するのは難しい。
ともすれば、夜空のオリオン座とサソリ座のように、遠く隔たったきり会えないままになってしまうこ
とだってあるのだ。
それなのに、今夜は何と素晴らしい夜だろうか。
君と、この明るい燭台を挟んで相向かい合えるとは。
        (中略)
昔、別れたとき、君はまだ結婚していなかった。
それが今は、子供たちがぞろぞろと列をなして私の前にやってき、笑顔でもって父の友をもてなし
ながら尋ねてくる。
どちらからいらっしゃったのですか?と。
そのやりとりが終わらぬうちに君はお子さんたちに酒肴を並べさせた。
        (中略)
君はしみじみと再会の難しさを嘆き、私は立て続けに十杯もさかずきをかさねた。
十杯かさねても私は酔えない。
なぜなら、君の変わらぬ友情の長さに感動するからだ。
明日、ここを辞してひとたび遠く山々に隔てられたなら、お互いの消息は茫々たる彼方に失われて
しまうことだろう。


ニシモト君の語るお父様の話は私の父も深く感動させ、ニシモト君に対する興味を非常に高まらせた
ようでした。
私はそのころ、毎年盆と暮れには福岡の両親のもとに帰ってきていたのですが、このニシモト君との
再会のあと、帰省のたびにニシモトファミリーとは会い続けたのです。

何度目かの出会いで、彼は私を別府団地の父母の実家まで車で送ってくれたことがあり、その時、
父母に紹介できたのですが、私の父は自分が深く信頼し、自分の後釜として厳しく鍛えた会社の後
輩のY氏にニシモト君の風貌がそっくりなことに深い感銘を受け、ニシモト君に強い親近感を感じたの
です。
Y氏は父が退職した後も毎年盆と暮れには我が家を訪れ、父を相手に盃を交わすという律儀さを亡く
なられるまで示し続けられた方でした。
Y氏は父よりもずっと若かったのですが、父よりも早く亡くなり、父はそのことを深く悲しんでおりました
から、Y氏に似ているニシモト君には強く惹かれたのだろうと思います。
ぎっくり腰をやってから身体を鍛えるために私が登山を勧めたことを話したら「わしがもっと若かったら
ニシモト君をあちこちの山に連れて行けるのになぁ」と言っておりました。

彼を私の縁故関係にも紹介したく、ハレルヤチョウのCho君の店のビルでの会食のおりにも彼を招
待しました。

後列真ん中がニシモト君

前列左端は修猷館の1年先輩で鳥飼バプテスト教会時代に大変親しくしてもらったイノウエさん。抱っ
こしているのは後にタカラジェンヌになったお嬢ちゃんとその隣は今やミュージカル界におけるプリンス
的存在のヨシオ君。その右隣は舞鶴幼稚園時代の恩師だった尾崎恵子先生。

家族で帰ったときは家族連れでニシモト家を訪問し、同じ年頃だった私の子供たちとニシモト君のお
嬢さんたちはマンションの階段で鬼ごっこなどをして遊んだものでした。
しかし、私の父と母が平成5年、6年と相次いで亡くなってからは私が福岡にもどることは極端に少な
くなり、ニシモトファミリーとの交流も途絶えて十数年となったのです。
そこに今回の福岡行きが決まった時、私はニシモト君に連絡したところ、是非にということでこの日の
再会となったのでした。

彼は春日市に転居しておりましたので西鉄電車に乗ってそちらに参りました。
西鉄電車に乗るのはそれこそ昭和41年以来のことです。
私は福岡にいたころから春日市には行ったことが無く、米軍基地があるというイメージしか無かったの
ですが、広々として清潔感溢れながらもどこか人工的街という印象でして、つくば市を連想させる雰囲
気だなと思いました。

ニシモト君夫妻

テーブルには鮮魚刺身の山盛りの皿があるという豪勢なもてなしだったのですが、小食の私は幕の
内をいただいたら刺身の皿には絶対に箸を付けられないことが判っていたので、早々に暖房の効い
てない部屋にお引き取りを願い、お二人の気持ちだけを有り難く頂きました。
ニシモト君は現在、福岡県内の幼稚園や保育園の音楽教育に携わる営業をやっており、調律の業
務はもう他人まかせとのこと。
彼の温厚で誠実な人柄が高く評価されるのでしょう、仕事はこの不況下の中、順調とのことです。

私の子供たちと一緒に遊んだお嬢さんは二人とも結婚して、今は、3番目のお嬢さんだけが一緒に住
んでいるとのこと。
写真を見たいと要望したら下記の写真をプリントアウトしてくれました。
左から長女、次女、三女です。三女さんは私が二十数年前にニシモト君と再会したときはまだ生まれ
ていなかったのです。
一度夏に訪れたとき、彼はひどいぎっくり腰をやって寝たきりになっており、同じひどいぎっくり腰をや
った経験がある私が見舞いがてら色々アドバイスをしているとき、側で見守っていた3人のお嬢ちゃん
たちの心配そうな表情は今もよく覚えております。
親友の素敵なお嬢さんたちのスナップ写真を見る時、私の心はほのぼのとした想いに包まれます。


k.mitikoさん宅での親類の宴会があるので、名残惜しかったのですが午後4時にニシモト君宅を辞しました。
心温まる一日でした。