西吉野の畠山一族 ツル姫さんの祖先探訪記 2013.03.20    by リワキーノ

話の発端は今から8年前に私の友人Bさんに聴いた話である。
Bさんの親しい友人のある女性は、奈良県の旧西吉野村(現、五條市西吉野町)出身で実家が畠山
重忠の子孫という言い伝えを先祖代々から受け継いできており、その詳しいことを知りたがってい
るので歴史に詳しい私にそれらのことを調べてもらえないかと思ってBさんは私にその話を紹介し
てくれたのである。
Bさんを通じて親しくなったその女性を私はロンドの会にも誘い、仲間うちでツル姫さんというあ
だ名が定着したので、この後はツル姫さんで通させてもらう。

畠山重忠は、歴史にくわしい人でなければ現代では知る人も少なくなったが、戦前までは源頼朝に
仕え、鎌倉幕府創設以来、智・仁・勇を兼ね備えた武将として有名であり、『平家物語』や『源平
盛衰記』、『義経記』にも頻繁に登場してきて様々なエピソードを持つ人である。

エピソード1
源義経が一ノ谷の戦で平家を攻める時に敢行したひよどり越えの逆落としのときに愛馬を背負って
崖を下りていった。『源平盛衰記』に載っているもっとも有名なエピソードだが、馬を人間が背負
うことができるのかどうかは不明。


A義経と木曽義仲との宇治川合戦で義仲の愛妾、巴御前を馬上同士の戦いで捕らえようとして鎧の
袖を掴んだところ、巴はその鎧の袖を引きちぎって逃走した。
鎧の袖がちぎれるほど、巴御前と重忠が怪力の持ち主だったことを強調する『源平盛衰記』のエピ
ソードだが架空の話と思われる。


B頼朝が不仲になった義経を討つように褒賞の領国まで示して命令したとき、それを断り、兄弟が
仲良くして幕府を盛り立てて行くべきであり、平家追討で大功のあった義経に自分に示された領国
を褒賞にあたえるべきと諫めるほどの正義感の強い硬骨漢だった。
 畠山重忠

C義経の愛妾、静御前が捕らえられて鎌倉の鶴岡八幡宮で白拍子の舞を舞うことを命じられた時、
鼓を担当したという風流人でもあった。
※鎌倉時代の公式記録『吾妻鏡』にはこのとき、畠山重忠は鼓ではなく、銅拍子を打ったとあり、
また、横笛を受け持ったという説もある。(下記のサイト参照)
私の詩吟日記(70)・詩吟神風流藤が丘支部
静御前

このようなエピソードから私も畠山重忠は武士の鑑のような人というイメージを幼いころから持っ
ていた。

しかし重忠は生まれも育ちも領地も関東であり、源頼朝の命を受けた源義経に従って平家追討のた
めに西国にやってきてはいるが、それは平氏との戦が行われた滋賀、京都、兵庫、そして四国、遠
く壇ノ浦のある山口の地域であり、吉野の奥に足跡を残したという話は聞いたことがないのと、重
忠は頼朝の死後、北条氏の謀略によって一族郎党、皆誅殺され、子孫は残っていないので、私は最
初、畠山家でも重忠とは違う別の系譜ではないかと思ってBさんを介してツル姫さんに直接会い、
問うたのである。
歴史好きな人間だったら畠山という名を聞くと、源平時代の畠山重忠か、応仁の乱にも大きく関係
する室町幕府の管領家、畠山氏を連想するが、ツル姫さんの系統はこの管領家ではないかと思った
のである。
ツル姫さんは、祖父母の代から畠山重忠の子孫であることを何度も何度も繰り返し聞かされ、奈良
県の県庁(教育委員会のことか?)からも聞き取り調査に来られたことがあり、また一族の墓もあ
って、今も西吉野に散在する畠山一族で重忠の供養をしていること、また西吉野村には二系統の畠
山家があるが、ツル姫さんの系統しか重忠の子孫とは認められず、供養にも参加できないことを言
われるのだった。
ただ、ツル姫さん自身は畠山重忠のことについてはまったく知らず、私が話す畠山重忠の人物像を
聞いてはじめてどんな武将か知ったそうで、ただただ、祖母が繰り返し話して聞かせる畠山重忠の
名のみ覚えていたのである。

インターネット検索
そこで私はインターネットで「西吉野村」、「畠山重忠」、「畠山の子孫」「畠山重忠の落胤」な
ど考えつくあらゆるキーワードを駆使し、またそれらを組み合わせて検索したのだがそれらは徒労
に終わり、西吉野村に畠山重忠はおろか、畠山一族の子孫が住み着いているという何の情報をも発
見できなかったのである。
ついでに『平家物語』や『源平盛衰記』に畠山重忠が登場する場面を全部チェックしたのだが、西
吉野はもちろん、奈良県にでさえ出向いたという記事は一切見つける事はできなかったのである。
※『平家物語』と『源平盛衰記』は全文、インターネットで見る事ができ、検索機能を使って畠山
重忠が登場するシーンを簡単に探す事ができる。
ちなみに『源平盛衰記』には驚くべき量の畠山重忠の名が登場する。

歴史書
そして私は畠山重忠の子孫が西吉野村に鎌倉時代から住み着いていたのなら、それは南北朝時代の
歴史書や資料にその存在が記録されているのではないかと思って、私の所蔵する南北朝時代や後南
朝関連の本を調べたのだが、そこでも奈良県吉野地方に畠山一族の足跡があったことを証拠立てる
記事は見つからなかったのである。もっともそれらの本をすべて一冊一冊丹念に通読したのではな
く、可能性のありそうな章をピックアップしてそこを集中して探したので読み落としの可能性もあ
るのだが。

西吉野村史
そしてその後、私は『西吉野村史』を調べたら何か手がかりが見つかるのではと思い、図書館で閲
覧(大阪府立図書館所蔵のものは貸し出し禁止だった)してめぼしい項目を調べたのだが、そこで
同村の畠山家は元武士の家系である、と言ったような記述を見つけたのである。これでツル姫さん
の実家、畠山家は武士の系統であることは判明したのだが、それが有名な畠山重忠の血を引くもの
なのかは断定できなかった。

『畠山重忠辞典』について
この『西吉野村史』を閲覧してから進展のないまま、歳月が過ぎていったのだが、ツル姫さんと親
しくなってから、彼女がなかなかの美人なのに風貌とはうらはらに脳天気な大らかな性格であり、
女性には珍しく信義を重んじ、間違ったことには激しい反発心とモラル感を示す、その人間性(注)
に強く惹かれ、私は何としてでも彼女のルーツをはっきりさせたい気持ちが消えず、ときおり畠山
重忠についてネット上で検索していたら2年後に『畠山重忠辞典』というサイトがあるのを発見し
たのである。

前に調べたときにはネット検索では引っかからなかったので、ここ数年の検索エンジンの性能の飛
躍的向上で新たにこのサイトが浮かび上がってきたのだと思うが、発信元は川本出土文化財管理セ
ンター(深谷市教育委員会)となっており、ここは畠山重忠の出生の地として知られており、そこ
の教育委員会が作製したホームページなら記述もかなり信用できるのではと思ってその中を見てみ
ると、「畠山重忠ゆかりの地」という項目があるのである。
畠山重忠にゆかりのある地を北は東京から南は鹿児島まで190箇所の地名が記されており、その
一つ一つに伝承やゆかりの寺、神社等の情報が盛り込まれているのである。
大多数が関東に集中していて関西はわずか10箇所で、京都府が5、奈良県が2、大阪府が2、兵
庫県が1、三重県が1となっているのだが、驚くべきことは奈良県は一つが奈良市、もう一つが立
川渡(たてかわど)という地名だったことである。
これには私は全身の血がカーッと頭にのぼるような興奮を覚えたのである。
立川渡とはまさにツル姫さんの実家がある西吉野村の在所であり、大峯山域に頻繁に山登りに行っ
ている私にとって、そこに行ったことはないが、地名としては地図上で馴染みのある場所だったの
である。
まさにツル姫さんの家に伝わる伝承が実際に畠山重忠と結びつく記述を畠山重忠の郷里の教育委員
会が作製したホームページで見いだしたのだから私がどんなに欣喜雀躍する思いになったことか。
早速その項目を調べると「重忠が頼朝から拝領した涅槃大曼荼羅を孫重氏が寄贈したという。重氏
は重忠菩提のため梵鐘を建立したという。近くに畠山一族の古墓があり、「畠山一族会」により供
養されている」という記述があり、その畠山重氏が寄進した寺は禅龍寺と記されていたのである。

ツル姫さんに問い合わせると、その禅龍寺で西吉野の畠山一族は定期的に祖先供養をしていること
を話してくれ、近くに畠山一族の墓所もあるとのこと。

禅龍寺
そして禅龍寺をネット検索で調べると住所も電話番号も判ったので、私は秋も深まった2008年11月
に立川渡の地を訪ねたのである。
立川渡は大峯山脈の北部に位置する乗鞍岳の北の谷に存在する在所である。
大峯の山間部に点在する村に共通するのがそこに至る道の狭いことで、途中、道を間違えたのでは
と思うくらい鬱蒼とした山道を運転していくと、やっと明るく開かれた平坦地に着くのである。
正面の山が乗鞍岳で、ツル姫さんの実家はこの中腹にあるのである。
ツル姫さんの友人のBさんの話ではそこまで至る山道はもの凄い急坂で道も狭く、運転に凄く気を
遣ったとのこと。
ツル姫さんが私に語ってくれた話によると、実家は山の中腹であっても畑を作るくらいの平坦な広
さはあり、山羊も飼育していて山羊の乳搾りや糞尿の処理や、五右衛門風呂の焚きつけなどもし、
小学校の通学には帰りが遅くなった時は暗い山道を登っていくため、いつも懐中電灯を持参してい
たとのこと。
まるでアルプスの少女・日本版のような少女時代を過ごしたのである。
途中、日陰に育つシャガの花の群生のなかに妖精たちが踊っているのを何度も目撃したという彼女
の話に、私はツル姫さんが浮世離れしたファンタジックな存在のように印象づけられたものである。


禅龍寺
右の道を下りていく。


禅龍寺


梵鐘
『畠山重忠辞典』の立川渡の項に記述のある畠山重氏が祖父重忠菩提のために建立したという梵鐘
は、大東亜戦争で供出させられたので、住職が奥様と一緒に日本全国を行脚して寄付を募り、この
梵鐘を建立することができたそうである。


そして禅龍寺で得た収穫は期待した以上のものだった。禅龍寺の住職は元西吉野村の教育長を長年
勤めた人で、郷土史家としても西吉野についてたくさんの研究をしてこられており、その中に西吉
野の畠山一族についてもかなり詳細な研究をされていて資料も残されており、おかげで今回私が突
然訪ねていってもたちどころに色んな資料を見せながら西吉野の畠山一族の由来、歴史的資料の存
在などを教示してくれたのである。

和州吉野旧事記』
室町時代に記された文書で原本は大宇陀町田原の片岡彦左衛門宅に所蔵されており、それを写し取
ったものが『川上村史・資料編』に掲載されているのだが、そこに宗川半郷に住む畠山兵庫は祖先
は畠山式部少輔の後胤である、と記されているのである。
下記資料の文中、赤字で傍線を引いた箇所を参照。
※カタカナの付記は『川上村史・資料編』もしくは『和州吉野旧事記』編纂時に記入されたものと
思われる。





禅龍寺の住職の研究では、この式部少輔という名称は室町幕府では将軍の側近にもなるような身分
の高い武家で使われるもので、室町幕府の三管領家のものであり、室町時代の古文書に西吉野の畠
山氏が鎌倉時代、南北朝時代、そして室町時代を通じて名家の誉れ高い畠山家の出であることが記
されていることからほぼ、その事実は間違いのないものという結論を出されていたのである。
また、この畠山式部少輔は重忠から6代あとの畠山義深であるとも住職は言っておられた。(後述)
『畠山重忠辞典』に記載されていた涅槃大曼荼羅も長櫃に大切に保管しており、寺の庫裏には畠山
家に伝わるいろんな骨董品があるとのこと。

涅槃大曼荼羅を収納した長櫃
畠山重忠の大きな法要があるときに取り出されるとのこと。


途中に来客があり、一度対応に出た住職が戻ってこられ、檀家がとても深刻な内容で相談に来たの
で時間が長引きそうであり、暗くならないうちに畠山一族の墓所を先に見に行くことを進められた
ので私はそれに従った。
墓所は禅龍寺前の山道をさらに車で上って最初に右へ道がカーブするところに下りていく入り口が
あると住職から聞いていたが、それはすぐに判った。


車をユーターンして山側に駐め、徒歩で私は墓所のある谷に下りていったのである。


墓所が見えてきたときの私の心の高揚はかなりのものがあった。


墓所に下りてみるとそこは東の方角に開けたところで明るかったが、何とも言えぬ幽玄の雰囲気を
帯びており、名のある一族の墓所にふさわしいものだった。




この五輪の塔は室町時代のものだそうである。


後ろは山の斜面。


前方は谷に向かって開けており、大変明るくて陰湿な雰囲気がまったく無く、墓所としては最高に
環境のよいところである。
だまし討ちという無念の死を遂げた畠山重忠の一族ではあるが、このようなところで毎年子孫の供
養を受け、一族の霊たちは慰められていることだろうと思うと同時に、他家に嫁いだツル姫さんは
ここには入れないのだな、と言う何か残念な思いにもなった。この格調高い墓所に彼女ほど相応し
い女人はいないのではと思ったからだ。


禅龍寺に戻ってみるとまだ檀家の客がおり、住職が客室から出て来られて、まだまだ時間がかかり
そうなことを告げ、先に見せた資料は全部コピーしたものなので、持って帰ってよいからまた貴男
の方で調べてくれ、判らないことがあったら電話でいつでも尋ねてくれ、と言われるので私は深く
感謝し、住職の写真を撮らせてもらって禅龍寺を辞したのである。
住職は当年84才とのこと。


この手記には関係ないが、法堂の左後方に多くの写真が飾られていることについて記したい。
それらは日清、日露、大東亜の戦争に西吉野村から出征していって戦死した村人の遺影で、住職が
ずっと供養し続けているとのこと。





戦死した村人たちを弔い続ける禅龍寺のご住職に深い敬意を抱き、わずかな額だったが、私もお供
えをさせてもらった。

畠山重忠の血統のゆくえ
禅龍寺の住職から頂戴した資料集を元にネットで様々な検索を行った結果、多くのことが判ってき
たのである。
まず、畠山重忠の系統が室町幕府の管領家である畠山氏にどうつながるのかを調べたところ、畠山
重忠一族は北条氏の謀略で皆殺しにあっているので直系の子孫はいないと思っていたが事実はそう
でなかったのである。
畠山氏が滅ぼされたあと、名門の消えることを惜しんだ鎌倉幕府は重忠の未亡人を清和源氏の足利
義純(よしずみ)と結婚させ、畠山氏を嗣がさせたのである。
義純は足利義兼の長男だったが、母が遊女だったため、跡取りとは認められていなかったので名門
畠山氏とその領地を嗣がされるのは相当な魅力だったことと思われ、すでに二児をもうけていた妻
を離縁し、重忠の未亡人と結婚し、姓も畠山と変えたのである。
(ちなみに義純の弟の義氏が足利家を継ぎ、その系統がのちの足利尊氏につながる。足利義純の時
代の清和源氏系図は下記のとおり。)


重忠未亡人と結婚して氏名を足利から畠山に代えた義純の系統が後に鎌倉幕府が倒れて南北朝時代
を経て、室町時代になったとき、管領家として天下に大きな存在感をしめす畠山氏となるのである。
しかし、これでは畠山重忠の系統は畠山家として残ったけれども、未亡人と他家(足利氏)の男性
との結婚では重忠の血筋は残らないわけで、ツル姫さんが重忠の血を引くことにはならないのであ
る。
ところがネット検索を進めていくうちに、下記の記述を見つけたのである。
青字のところを注目されたし。

足利義純
長男の足利義純は新田義兼の娘と結婚して岩松氏、田中氏の祖となり、後には畠山重忠の室であっ
た北条時政の娘(「津山本畠山系図」では畠山重忠と時政娘の間に出来た娘とも言う(注25)。
年齢的にはこちらの方が妥当である)
と結婚して源姓畠山氏の祖となっている。
(鎌倉初期の足利氏−義兼・義氏と鎌倉政権−)
http://bdg.sakura.ne.jp/siseki/asikaga/asikagagaisetsu_2.html

これで見ると足利義純が結婚した相手は重忠とその夫人の間に生まれた娘という可能性もあり、そ
れだと重忠の血筋はその娘を通じて子孫、つまり室町時代の管領家畠山氏、ひいては現代のツル姫
さんまで繋がっていると言えるのである。
この記述は上記のサイトがネット上から消滅しており、「津山本畠山系図」もネット上で見つけら
れないので確固たる証拠として挙げられないのだが、通常、氏族の存続をはかるとき、その血筋を
引いた者をその当事者にするのが自然だと思うので、私は重忠の娘が存在した可能性は大いにある
と思うのである。
有名な忠臣蔵の物語で、赤穂浪士につけ狙われる吉良上野介を上杉家が全力をあげて庇護すること
が必ず語られるが、上杉家が吉良上野介を擁護するのは上杉家の当主が上野介の実子であるからだ。
上杉家に男子の世継ぎが望めなかった時点で他家からの養子を目論んだとき、上杉家の姫君が嫁い
だ吉良家の子供は上杉家の血筋を引く者として認められ、上杉家に養子として迎えられたためだか
らであることを思えば、畠山重忠の後を継がすのは当然、重忠の血を引いた者がいなければ話その
ものが起こり得なかったのではと私は思うのである。
ただし、子をなさなかった未亡人であっても夫の死後、婿養子を迎えて婚家を継いだ例が他にも多
くあるのだったら私のこの主張も根拠の薄いものになるが・・・

畠山義深
『和州吉野旧事記』に「宗川半郷に住む畠山兵庫は祖先は畠山式部少輔である」と記述のある畠山
式部少輔だが、禅龍寺の住職は畠山義深のことである、と言っておられた。
畠山式部少輔という人物が畠山義深であるという指摘は住職から頂戴した資料集のなかにあった住
職の手書きの下記の手記のみが手がかりである。

「柳(ママ) 兆殿司の筆、涅槃曼荼羅の由縁を尋ぬるに、畠山家6代畠山式部少輔義深(1438年
自殺)、7代基国この地に遁世 それより伝わる」
古文書『故畠山遺跡涅槃会式施行由来誌』による

同じく住職から頂戴した資料集のなかに『奈良県吉野郡史料』という資料の一部がある。大正8年か
ら12年にかけて編纂されたもので、『和州吉野旧事記』などの吉野地方に伝わる古文書類を収集し
たものである。


そのなかに赤で囲った箇所の記述。



涅槃大曼荼羅は兆殿司の筆なり、との記述があり、ここまでは禅龍寺住職の記述と一緒なのである
が、元は畠山重忠が頼朝より受領したものを重氏が立川渡に遁世する際に持ってきたものであると
明記されているところが、禅龍寺住職の記述と異なるところである。

兆殿司
涅槃経曼荼羅の筆者とされている兆殿司はネットで実在が確認される。


重氏が重忠の孫にあたるのなら、12世紀から13世紀に生きた人であり、兆殿司とは百年も時代を
隔てており、重氏の涅槃大曼荼羅は兆殿司の筆となることはあり得ない。
そこで先の『奈良県吉野郡史料』のなかの赤で囲った箇所の右側のところだが、禅龍寺が安永5年
12月20日に火災にあって諸堂、宝物など皆焼失したという記述がある。
このとき、重忠が頼朝から受領した涅槃大曼荼羅は焼失したので、14世紀になって義深の依頼によ
って兆殿司により復元され、それを義深は立川渡の禅龍寺に納めて現在に至っているのではないだ
ろうかという推察が成り立つ。
禅龍寺住職の説のよりどころとなっている『故畠山遺跡涅槃会式施行由来誌』はネット検索で探し
たが見つからず、実際の内容を調べることはできなかった。

ウイキペディアの畠山義深についての記述は下記のとおり。
畠山 義深(はたけやま よしとう、元弘元年(1331年) - 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11
月21日))は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄に畠山国清が、子に畠山基
国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。
国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年
(1361年)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏。貞治
5年(1366年)、幕府に許され、貞治の政変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命さ
れ、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴
任した。


また、畠山義深については下記のような伝説もある。
画像をクリックすると拡大。

http://blogs.yahoo.co.jp/slowlifeliker/65336070.html

上記のサイトと同じようなことを記した別のサイト
上田増福寺由来

これらを見ると畠山義深は河内の国で生涯を終えたことになるが、要は義深は室町幕府の権力の中
枢から遠ざかって大和の国吉野であれ、河内の国であれ、都から遠く隔たった片田舎に隠遁したこ
とが想像され、禅龍寺の住職も『故畠山遺跡涅槃会式施行由来誌』の資料から、立川渡にやってき
た最初の畠山氏はこの義深の系列と判断されたのだろうと思う。

畠山重氏
一方、『畠山重忠辞典』の立川渡の記述にあるように、重忠の孫、重氏が重忠の供養をしていると
はっきりと記されていることをどのように解釈していいのかという問題が残っている。
ここにインターネット上で見つけた源姓畠山氏系図というのがある。

この系図は足利義純が重忠の未亡人、もしくは娘と結婚してからの系図である。
この系図の右の方に重氏という名がある。(赤枠で囲んだところ)


この源姓畠山氏の系図を隅々まで探して見つけ出した重氏の名はこれだけである。
しかし、この重氏は足利義純が畠山氏を継ぐ時に離縁した妻の子(時朝)の血統であり、畠山重忠
の血筋とは何の関係もない。
当然、一顧だにしないのが当たり前なのかもしれないが、『畠山重忠辞典』に重忠の孫、重氏と明
記されていて、重忠から譲り受けた涅槃大曼荼羅も立川渡に持ち込んだということを思うと、この
重氏という人物は重忠の正しい血筋を引き継いだ最も近い存在であったかもしれないという可能性
を捨てきれないのである。
つまり、父、足利義純が畠山家を継ぐにあたって離縁した前の妻の子ではなく、重忠未亡人、もし
くはその娘との間に生まれた子(泰国)の系統が、何かの手違いで別系統の系図に組み込まれてし
まったのでは、という思いが残るのである。
しかし、上記の家系図のきちっとした構成を見る限り、この私の推察はかなり無理があることも認
める。
また、これはまったく資料的裏付けがないが、重忠一族が滅ぼされたとき、重忠の子供たちは戦の
中で全員死んだが、孫が一人生き残っていて、その孫が立川渡に落ち延びて行った可能性もあると
思う。

現在、私が調べ得ることができた範囲で得た結論というか推論は下記のものとなる。

@畠山重忠一族が誅殺されたあと、畠山家の存続を願った幕府の意志により、重忠の未亡人、もし
くはその娘が足利義純と結婚させられ、畠山家として鎌倉、室町、戦国、江戸、明治へと家は残り、
その支流が鎌倉時代もしくは室町時代に西吉野村の立川渡に住みつき、ツル姫さんの家へと繋がっ
ているというもの。
A『畠山重忠辞典』の立川渡の項にあるように、重氏という重忠の孫が重忠一族滅亡のときに、生
き残って大般若経曼荼羅を持って立川渡に落ち延びてきて、その後胤が西吉野村に住みついて現代
のツル姫さんにつながったというもの。
Bいずれにしてもツル姫さんが畠山重忠の後胤であることはかなり可能性が高いこと。

そしてここに@の場合、もし足利義純が畠山氏を継ぐために結婚した女性が重忠の未亡人ではなく、
その娘だった場合、ツル姫さんは畠山重忠と足利義純の両方の血筋を受け継いでいることになるの
である。
それはどういうことかと言うと、畠山重忠はれきっとした桓武平氏の子孫であり、足利義純は正統
な清和源氏の子孫であるということを思うと、ツル姫さんは『保元・平治物語』や『平家物語』、
『源平盛衰記』で活躍する清和源氏と桓武平氏の両方の武門の血を受け継いだ女性ということにな
るのである。
普段は穏やかで滅多なことでは顔色を変えないのに、怒った時はやくざでもびびってしまう、凄ま
じい形相をするツル姫さんの姿を知る人はこのことを信じられるのではないかと思うのである。
いつかは京都府精華町の国会図書館、もしくは東京の国会図書館で「津山本畠山系図」と「故畠山
遺跡涅槃会式施行由来誌」の原本を探し出して、ツル姫さんの畠山重忠後胤説をより可能性の高い
ものにしたく願っている。

ツル姫さんの画像