リワキーノ一家のおのぼり旅行(三日目・その2) 
氷川丸と日本郵船の物語      by リワキーノ  2011.02.27

迎賓館を見終わった私たちは四ッ谷からJRで渋谷に出て、そこから東急東横線に乗り換え、新横浜駅
を目指しました。
茅ヶ崎在住の娘の友人、ユーユーさんが愛娘を連れて新横浜駅まで来てくれたのです。
奥様も一緒の予定だったのですが、急用ができて父娘だけになったとのこと。


娘のコオトちゃんは同じ年頃の我が孫達に会えることを大変楽しみにしていたとか。
最初は人見知りする我が孫達はコオトちゃんに親しみを見せなかったのですが、昼食を一緒した後では
かなりうち解け、結局、孫達は娘とユーユーさん親子と一緒に新幹線に乗るときまで過ごすということに
なったのです。

そういう展開のおかげで私たち夫婦は初めて二人きりになれ、Capt.Senohお薦めの元町・中華街を目指
すのです。
みなとみらい線「元町・中華街」駅です。

「横浜は地下鉄の駅からして違うね!」と電車を降りた家内が言いますが壁面に描かれた船の絵が印象
深かったのでしょう。
大阪にも京都にも横浜に負けないくらいの綺麗な地下鉄駅はあります。
特に長堀鶴見緑地線の心斎橋駅は実に美しいです。地下鉄ではないけれど、同じく地下を走る京阪電鉄
中之島線は四つの駅(なにわ橋、大江橋、渡辺橋、中之島)のすべてが2009年度のグッドデザイン賞を
受賞しております。
話しがそれました・・・

地上に出るとそこは中華街の入り口。


既に昼食を終えていた私たちは中華街には寄らず、海岸の方角、山下公園へと行きます。


そう、お目当てはこれなのです。
戦前、戦後を通じて北太平洋航路で活躍した日本郵船の貨客船、氷川丸です。


氷川丸は浅間丸、竜田丸、秩父丸(後に鎌倉丸に改名)、照國丸、平洋丸などの戦前、欧米航路を彩った
日本郵船の多くの貨客船が戦没したなかで生き残った唯一の貨客船なのです。
戦前、日本郵船の社員として我が父は”太平洋の女王”と言われた浅間丸に、我が叔父(父の弟)は照國
丸に乗船勤務していたので同じ時代に建造され、生き残った氷川丸への私の関心は並々ならぬものがあ
りました。
しかもこれは旅から帰ってからk.mitikoさんに聞いて知ったのですが、この氷川丸の処女航海に父も乗船し
たのでした。

父が乗船した浅間丸から写した姉妹船、竜田丸。(父のアルバムから)

竜田丸は昭和18年、潜水艦の魚雷攻撃を受けて数分間で沈没、乗員、乗客、一人の生存者もいなかっ
たそうです。

浅間丸がホノルル港で出会ったエンプレス・オブ・ジャパン号。(同アルバムから)

浅間丸より1年後に建造された英国の客船で2万6千トン、平均速力22.27ノットという高速で太平洋横断
記録を樹立(横浜〜ヴァンクーバー間)したことから父を初めとする浅間丸の乗組員は興味津々の思いで
眺めたのでしょうね。

日本郵船に勤務していたころの父と母。
我が姉、k.mitikoさんはこの横浜で生まれました。


照國丸に乗船した叔父。
  
右側の写真は陸のすぐそばを航行していますが、スエズ運河でしょうか。
叔父は船のコックでした。

話しを現代にもどし、氷川丸の船内に乗り込みます。


一等船客食堂。予想したほど広くはありませんでした。

日本郵船の社史誌とでも言える「二引の旗のもとに・日本郵船百年の歩み 」(日本郵船刊)によると戦
後、氷川丸の北太平洋航路が復活したとき、内装はそれまでのルイ王朝式から明るいアメリカ式となった
そうです。
氷川丸は1万7千トンの浅間丸より一回り小さい1万2千トンでしたが内装は浅間丸にひけをとらなかった
らしく、浅間丸の写真(「二引の旗のもとに」掲載)から戦前の氷川丸の内装が推察できそうです。





一等社交室。

ヤマハ製のグランドピアノがあります。
鍵盤蓋は鍵がかかっていたので、そろっと大屋根の前のまくり蓋を開けて中を見るとNo.G3というモデ
ルでした。
No.G3モデルは1960年代の製品ですから戦後に備えられたもの。戦前はどのメーカーのピアノだった
か興味のあるところです。
一流を常に目指す日本郵船のこと、スタインウエイだったかも知れません。
なにしろ郵船最初の客船、浅間丸を建造するとき、フランスから有名なシェフを社長の給料に近い報酬で
招き、社員のコック達を特訓させたそうですから。

日本郵船の客船の料理の美味しさは国の内外で定評があり、帝国ホテルより美味しいと言われたそうで
す。
喜劇王チャップリンが日本から米国にもどるのに日本郵船とアメリカとカナダの船会社が争奪戦を演じたの
ですが「氷川丸の料理の方が美味しい」という側近のアドバイスで氷川丸に決まりました。
戦後、氷川丸が太平洋航路に復帰したとき、既に老朽化していて速度もアメリカの新造船とは勝負になら
ないくらいの航行の遅さだったにも拘わらず、客を荷物のように運ぶアメリカの船に較べて、戦前の伝統を
守ってきた氷川丸の料理の美味しさとサービスの素晴らしさに多くの船客は氷川丸を贔屓し続けたとのこと。
「落ちぶれても良家のお嬢さんは上品で優雅」とちまたで言われたそうです。
詳細は下記を参照ください。
日本郵船の船の料理とサービス




氷川丸の説明書きのコーナーに色々な画像が掲示されてます。


この画像の女性の装いは高畠華宵の描くファッションですね。


船長を囲んでの写真撮影が大人気だったそうです。


メニューを記す台紙でしょうか。


乗船客の感想を記したメモ類。


宝塚歌劇団が戦後初に渡米するとき(1959年)の画像は私の視線をいやが上にも引きつけました。

タカラジェンヌたちはどんな船旅をしたのでしょうね。
横断幕を用意して横浜埠頭まで駆けつけた大勢のファン達の姿を見ると、本当にファンというものは有り
難いものだと思いました。宝塚歌劇の俳優たちとファンの深い絆は素晴らしいものがあります。

一等船客用ラウンジ




一等船客たちの部屋が並ぶフロア。


一等客室(ツイン)。


シングル


一等特別室。普通の一等船室と内装、調度が全然違います。


寝室と浴室と居間の3室続きになっています。(居間は撮影に失敗)




日本郵船のシンボルマーク、”二引の旗”が彩られた煙突。
敗戦のあと、GHQ(日本占領司令部)によって日本郵船の社名の改名とこのシンボルマークの使用禁
止を言い渡され、日本郵船の人たちは目の前が真っ暗になるような絶望感に襲われたそうです。
敗戦で日本郵船が遭遇した運命は惨憺たるものでした。
詳細については下記をご参照ください。
日本郵船の受難



山下公園がバックに。ベージュ色の柱の向こうに見える背の低い建物が名門のホテルニューグランド。
Capt.Senohが「必ず見学するように、できたら喫茶も」と薦めてくれたホテルです。


船首の先の東の方角にベイブリッジが見えるそうですが、正面のあの高い2本の白い塔あたりがそうでしょうか。
それとも右手に映っているH型の白い塔あたりでしょうか。有名なベイブリッジ、いつか通ってみたいものです。


北の方角にはみなとみらい地区が見えます。どれがどのビルかさっぱり判りません。


操舵室です。


船長室。意外に狭いのに驚きました。操舵室にすぐ行けるような位置に配置されてます。


デッキの先で欧米人らしき女性が子どもをあやしておりました。


屋外デッキ。

映画「めぐり逢い」の一シーンを思い出します。

アメリカの豪華客船”ユナイテッド・ステーツ号”内で知り合って恋に落ちた男女(ケーリー・グラントとデボ
ラ・カー)がニューヨーク到着を目前の最後のダンスパーティでダンスを踊りながらホールを抜けだし、デッ
キに出てきて愛を告白し、再会を誓い合うシーン。
豪華客船の船旅を舞台にしたロマンティックな古き良き時代のハリウッド映画で、私は何度見たことでしょ
うか。



機関室です。氷川丸の心臓部です。
3フロアぶちぬきの巨大ディーゼル機関。





下層のフロアが見えます。ここは海面下。私は機関室にいるとき、重苦しい気持ちに襲われました。


機関室で職務に従事する乗組員は一番、リスクの高いところにいると想像するからです。
海難事故が起きて船が沈没するとき、一番避難しにくいところにいるのですから。
後述するように、日本郵船の客船、貨物船は大変な数が米潜水艦の餌食となって海の藻屑となりました。
魚雷攻撃を受けて命中箇所によっては数分で沈没した例もあり、そんなとき下層の機関室にいた乗組員
は逃げる暇も無かったと思うのです。
軍艦の場合でしたら海戦となったとき、いつ撃沈されるか判らないわけですから機関室の乗組員は常に
そのことを意識しながら任務についていたのだろうなと想像し、重苦しい気持ちになったのです。
我が息子、我が孫がそこに配置されたと思うだけで暗澹たる思いになりました。
でもそんなことを言い出したら潜水艦の乗組員はもっと過酷ですよね。
爆雷攻撃の直撃を受けたとき、逃げるすべはまったくないのですから。
戦争は本当に残酷なものです。

機関室を出るとそこは三等船室のフロアです。


三等客室。意外と居心地よさそうな雰囲気ですがベッドの長さがとても短いように感じ、一緒にいる他の
客たちもそのことを口にします。

「これでは欧米人からクレームが出たのでは」と私が家内に言うと、そばにいた子ども連れの女性が
「欧米人乗客は皆一等か二等に乗ったのではないでしょうか?」と言います。
「でも映画タイタニックのデカプリオは三等船客でしたよ」と私が答えると
「あら、そうでしたわね!」と彼女はひょうきんな声で答えるので周りの人たちが笑い出しました。
窓から眺めるだけでは実際の寸法より短く見えるのかも知れません。

見学できるところはすべて見て私たちは氷川丸をあとにしました。
一つだけ心残りだったのは父や叔父たちが起居したであろう乗組員室が公開されていないために見
られなかったことでした。
どんな部屋に父たちは寝起きしたのだろうと、知りたかったですね。


氷川丸を見学し、帰宅してからこのレポートのために色々調べていて私は日本郵船という会社の素晴
らしさに魅了されると共に第二次大戦で受けた同社の想像を絶する被害に強い衝撃を受けました。
「二引の旗のもとに」に記されている下記の記述は著者の血を吐くような痛憤の思いが伝わってきます。

戦前、世界に誇った優秀客船、高速貨物船は、わずか氷川丸一隻を残しただけで、ことごとく海底に
没した。戦禍で失った船は172隻102万トンに達し、終戦時の保有船舶は37隻15万5000トンに
過ぎなかった。
が、いうまでもなく、痛恨の極みは多数の人材を失ったことである。日中戦争および太平洋戦争の間、
日本郵船は陸上社員155人、海上社員5.312人の犠牲者を出した。敗戦国とはいえ、一企業でこ
れほど多数の従業員を戦争で奪われた会社が他にあるだろうか。


日本海運界の7万人の船員が輸送任務に動員され、3万人強が船と運命を共にしたそうで、人員の
損耗率で言えば、陸軍の20パーセント、海軍の16パーセントにたいして、43パーセントという高率
だったと「狂気の海・太平洋の女王浅間丸の生涯」(内藤初穂著、中央公論社)に記されてます。
これは帝国海軍の輸送船を護衛するという認識が欧米に較べ遙かに劣っていたせいと同書で述べら
れていますが、海軍の16パーセントに対して民間商船の43パーセントの数字を見るとそのことを強く
信じられます。
そしてそのあげくが先述の敗戦後の日本郵船の受難となっていくのです。こんな理不尽な話しがあるで
しょうか。

「二引の旗のもとに」を読んでいて深い感銘を受けるのはこんな理不尽な目に遭いながらも日本郵船
には国を恨む記述とか不平不満を感じられる文章は上記のものを除くとほとんど無いことです。
若き日に辞めた父のような元日本郵船OBにも何十年、記念品とかこの「二引の旗のもとに」というよう
な立派な本を送り続けてくるのですから、如何に日本郵船がおっとりとした雰囲気を持つ会社かがお判
りだろうと思います。
日本郵船の代々の優れた社長たちのことも本当は紹介したいのですが、それはあまりにも膨大な文章
となりますのでここでは割愛します。

下記の写真は”昭和6年神戸”と父のアルバムに記されてますので日本郵船の宴会のものと思われます。
(真ん中の列右端が父)

父は第二次大戦前に日本郵船を辞めて関連会社に移動し、陸上勤務となりましたので天寿をまっとう
できましたが、確率から言えば、この中の父を除く半数近くの人が撃沈された日本郵船の船と運命を
共にしたのではと思うと長年見慣れてきた写真ですが、今さらのように胸が痛みます。

叔父の乗った照國丸は第二次大戦で最初に戦禍に遭った日本の商船です。
まだ日本が参戦する前にイギリスのテームズ川河口で機雷に触れて沈没したのですが、沈没までに時
間の余裕があったため、乗客、乗組員の全員が待避することができました。
その後、叔父がどの船に乗船したかは知らないのですが、一度、乗った船が撃沈され、叔父は海上を
漂流したこともあったと中学生だった私に話してくれました。
でも定年まで日本郵船に勤務し、退職後は大阪梅田にできた新阪急ホテルのコック長として招かれ、
そこで厨房のコック達を指導し、数年働いて退職、横浜に戻って悠悠自適の生活を送ったあと、兄であ
る父に先立って家族に見守られ、亡くなりました。
高い死亡率にさらされた戦前の海運業界に身を投じながら、生きながらえた父も叔父も本当に幸運だっ
たと天に感謝するとともに戦争で亡くなられた人たちへの深い哀悼を捧げたく思います。

年数から見て照國丸に乗船していたころのもの。左が叔父。

第二次大戦で戦没した日本郵船の主な船の最後は下記をご参照ください。
戦没した商船

父や叔父のことに触れたとき、日本郵船を通じて我が一家に深い縁故のあるこの方を紹介したく思います。

日本郵船社員のジェントルマンシップを心身ともに具現し、私と私の二人の姉たちが父の友人の中で
もっとも敬愛した方です。
この方に興味をお持ちの方は下記を参照下さい。
安藤ヲ氏のこと

氷川丸をあとにしてホテル・ニューグランドに行きました。


最近のホテルの巨大さから見るとそんなに大きな建物ではないにもかかわらず、Capt.Senohが強く勧め
るだけあって実に格式高い雰囲気でしたね。
創建は1927年(昭和2年)だそうですから、浅間丸(昭和4年)、竜田丸(昭和5年)、氷川丸(昭和5年)
らと同じ時代に産声をあげたわけです。
戦前は浅間丸、竜田丸、戦後は氷川丸などの豪華客船で横浜にやってきた外国の旅行客たちが多く利
用したのでしょうね。


84年の歴史を経た現在、浅間丸、竜田丸などの船は姿を消し、目の前の埠頭には引退した氷川丸が繋
がれている。
ホテルの建物に心があると仮定したとき、どんな感慨でこの平成の山下公園界隈を見ているのだろうか
とふと私は想いました。

山下公園に面した玄関は裏口なのですが、私たちはここから入りました。
すぐに同ホテルのホームページでも紹介されている立派な階段があり、ウエディング・ドレスの女性が上
がっていくところでした。


いよいよ披露宴の席に入場するところなのでしょうか。
居合わせた客がみな携帯電話のデジカメで写してたので私も不躾かなと想いながらも撮らせてもらった
のです。


廊下をぐるっとまわって、


素敵な絵画が飾ってある前を通り抜けるとカフェがあります。
Capt.Senohがここで御茶でも飲むようにと勧めてくれたところです。
コーヒー、紅茶はサービス料・税込みで¥1100。
一流ホテルの値段としては決して高くなく、大阪のリッツ・カールトンもそのくらいします。
しかし、車の修理代のことがやはり頭の中にあるのか家内が「別にお茶も今は欲しくないから見るだけで
いい」と言うので中には入らず、見るだけでやり過ごしました。
氷川丸で1時間以上も見て回ったあとなのですからお茶を飲みたくないと言うのは絶対ウソだと思うので
すが、金策にいつも苦労するのは家内なので黙って従います。


表側のエントランスに来ました。右側が外への出口です。


エントランスの反対側。どちらがフロントなのかは不明。

出入り口から見るとこんな感じです。

外に出るとスラッと背の高く、ハンサムなドアマンが立っていて、にこやかな笑顔で私たちに微笑んでくれ
るので思わず、写真撮らせてもらっていいですか?と尋ねるとニッコリ笑い、離れていたところに立ってい
た同僚も呼んで一緒に撮らせてくれました。

「お二人のあまりにもかっこの良い制服とコート姿に見惚れ、ナチスドイツの軍服を着せたくなる欲求に
駆られました」というと二人ともひときわこぼれるような笑い顔になったのです。
真心から出てくるサービス精神がなければここまで人の気持ちを和ませる笑顔は浮かべられないと思い
ました。
Capt.Senohが強く勧めてくれる店やホテルは単に建物が立派とか料理が美味しいというだけでなく、サ
ービスも一流であることが条件となっているのですが、このホテル・ニューグランドもその例にもれないも
のでした。
旅に出る前にホテル・ニューグランドに電話で色々尋ねごとをしたとき、電話に出た女性スタッフの応対も
丁寧だけでなく、こちらがリラックスして色々尋ねられるような、とっても優しい語り口で、そのときから同
ホテルの感じ良さを強く印象づけられたのでした。
美丈夫二人に接した家内の顔も上気しており、私たちは実に良い気分でホテル・ニューグランドを後にし
たのです。
元町・中華街駅から電車に乗り込んだ私たちは、また横浜に来てもっとゆっくりと見て回りたいと思いました。
らんらんさんお薦めの丘公園や埠頭に並ぶ煉瓦作りの建物類、”修験道のマスコットガール”ますみさん
から色々話しにきいた卒業校フェリス女学院等々を。

午後3時半に新横浜駅で娘と孫たちと合流。

娘たちとユーユーさん父娘は新横浜駅そばの広場でずっと過ごしたそうで、孫たちとコオトちゃんはすぐ
にうち解けて娘とユーユーさんが積もる話しをしている間、広場で走り回って遊んだそうです。
私たちが到着する直前に別れたそうですが、コオトちゃんはもう泣かんばかりに別れを嫌がったとか。

新幹線に乗り込んだら、孫のマサカゲはすぐに眠りにつきました。


しばらくお絵かきをしていたリサコもやがて私の膝の上で眠ってしまい、名古屋まで私は孫娘を抱きかか
えたまま、缶ビールやハイボールを飲み続けたのでありました。


新大阪駅着は午後6時。息子夫婦が車で迎えに来ましたので孫たちを託し、駅で別れましたが、孫を連
れた旅が無事終わってホッとする思いでした。
今回のおのぼり旅行はCapt.Senohのおかげで本当に充実したものとなり、首都東京、港町横浜はもっと
時間をかけて見る価値がある所という認識を強く抱きました。
ゴールデンウイークなどの連休に多くの人が押し寄せる観光地などを避けて首都圏に行くのは穴場かも
知れません。
Capt.Senohには深く感謝しております。

参考文献

「二引の旗のもとに 日本郵船百年の歩み 」

「狂気の海 太平洋の女王、浅間丸の生涯」